韓の俳諧 (54)                           文学博士 本郷民男
─ 修行時代の日野草城⑦ ─

 日野草城が俳句に関心を持ったのは、1917年(大正6)に、京城中学校5年へ進級した頃です。父が送ってくれた絵葉書の末尾に、静山の号で「谷間の残雪の中にツツジが咲いている」という意味の俳句らしきものが書いてありました。本人は俳句のつもりらしいが、リズムが整わないと草城が評しています。父の本名は三原梅太郎で、印刷工をしながら漢学塾や岩倉鉄道学校に学びました。三原梅太郎と木村エイが、日野家へ入婿・入嫁として入籍しました。父は自分にさしたる学歴がないので、子の教育には熱心でした。父の才能は凡庸で、草城は自分ならもっと良い句が詠めると思ったことでしょう。
 1917年の夏休みに、草城は父の任地である淸津(チョンジン)へ帰省しました。淸津は韓半島の北東端に近い辺境です。父静山の職場は鉄道局で、木の芽会という句会がありました。草城も木の芽会に加わって、俳句を始めました。木の芽会ではホトトギスの俳人で会寧(フェリョン)に住む久世車春へ句稿を送り、指導を受けていました。木の芽会は、例えばホトトギス1917年6月号の句会報に見えます。
●木の芽会(咸鏡北道 淸津)
暖かやひねもす造る鼠の巣 如水
暖かや老の身と知る縁恋し 静山
 同9月号では
●木の芽会(淸津)木風報
封切らぬ手紙袷のふところに 車春
草に上げし泥の乾きや青田風 如水
華茣蓙に裸の人の書見哉 静山
 新田如水は職場の所長で、俳句でもリーダーでした。同じホトトギス6月号の虚子「進むべき俳句の道」に久世車春が含まれています。大阪の髢(かもじ)商の老舗で、車春は若旦那でした。継母が姪を妻として押し付けたため、家出しました。青木月斗に俳句を学び、ホトトギスにも投句していました。車春には相愛の芸者がいましたが、車春は中国との境、芸者は岡山へと別居を余儀なくされました。車春は間島貿易の番頭をしていて、30歳でした。間島とは、中国と韓半島の境を流れる豆満江(トゥマンガン)の中州で、中国領ではあるが、住民は半島人です。彼らは多言語を話せるので、中国とロシアとの交易が容易でした。
 草城は帰省した時に父に連れられて会寧に行き、車春に会うことができました(「今は亡き久世車春氏のこと」草城『展望車』)。車春は背が高い好男子で、縞の着物に羽織を着ていました。番頭さんらしく腰が低く、畳に額を摺りつけるようにして挨拶するのが、気の毒なほどでした。間島貿易は鉄道局の指定商人だったので、俳句の先生なのに役人とその息子として接したようでした。秋には人事異動で如水も静山も京城へ転勤しました。車春もほどなく岡山へ移りました。