古典に学ぶ (125) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を繙く
─「病」と「死」を物語はどう描いたか⑨ 葵上⑤ ─
                           実川恵子 

 現実には起こりようのない奇怪な事態をまのあたりにした源氏は、女の妄執の恐ろしさにおののいた。
 それでも強力な加持祈禱の甲斐あって、物の怪は退散し、葵上は難産であったが、元気な男の子(夕霧)が誕生した。しかし、これで難関は無事に突破したという油断があったのだろうか。時も時、ちょうど秋の司召(つかさめし)のころで、左大臣以下、源氏も邸を留守にしていた時のことであった。

 殿の内人少なにしめやかなるほどに、にはかに、例の御胸をせき上げていといたうまどひたまふ。内裏(ち)に御消息(せうそこ)聞こえたまふほどもなく絶え入りたまひぬ。足を空にて誰も誰もまかでたまひぬれば、除目(ぢもく)の夜なりけれど、かくわりなき御さはりなれば、みな事破れたるやうなり。ののしり騒ぐほど、夜半(よなか)ばかりなれば、山の座主(す)、何くれの僧都(そうづ)たちもえ請(そう)じあへたまはず。今はさりともと思ひたゆみたりつるに、あさましければ、殿の内の人、物にぞ当る。所どころの御とぶらひの使など立ちこみたれどえ聞こえつがず。揺(ゆす)りみちて、いみじき御心まどひどもいと恐ろしきまで見えたまふ。御物の怪のたびたび取り入れたてまつりしを思して、御枕などもさながら二三日(ふつかみか)見たてまつりたまへど、やうやう変りたまふことどものあれば、限りと思しはつるほど、誰も誰もいといみじ。
 (御邸内が人少なでひっそりしている間に、女君は急に、いつものようにお胸をつまらせて、ひどく苦悶なさる。宮中の方々にお知らせ申し上げる余裕もなく葵上は息絶えておしまいになった。足も地につかぬ状態で誰も彼も除目の夜で、ご退出になったので、こういうやむをえないことなので、まるで事がご破算になってしまったようである。大騒ぎの時は夜中ごろなので、山の座主、何がしくれがしという僧都たちも、お招きしようとて、それができない。いくらなんでも今はもう大丈夫と油断していたところ、まったく意外なことなので、大臣家の人は驚きあわてて物に突き当たる。あちらこちらからのお見舞いの使者などが一度に詰めかけたが、お取次ぎもかなわず、邸内が揺れているような騒ぎで、人々のひどい動転ぶりも恐ろしいほどのご様子である。これまでも何度か物の怪が女君を取りさらって、こと切れたようになられたことをお思いになって、御枕返し(北枕西向きに位置を変える)もなさらず、そのまま二日三日とご様子をごらんになられたけれども、だんだんと相貌が変わってきたりするので、もうこれまでと断念なさるときは、誰もみなまったくせつない思いである)。

 このように『源氏物語』にしばしば登場する「物の怪」について、もう少し考えてみたいと思
う。
 物の怪とは、平安中期に広まった観念で、心身の弱り目に取り憑き危害を加える怨霊のことをいい、死霊、生霊から妖怪にいたるまでさまざまな形で現れるものとされた。このような現象を本格的に物語の中に取り入れたのは『源氏物語』が初めてである。当時の人々はこれをとても恐れ、具合が悪くなるとこの物の怪の仕業かと疑い、祈禱やお祓いをしたりする。紫式部はそれを冷静に見、そんなものが本当にいるのかを疑っていたようである。物語に書きはしたが、頭から信じていたわけではなく、「物の怪のようなものを生み出したり信じたりしてしまう人間の心」を書くための一つのツールとして、物の怪現象を使ったといったほうがいいように思うのである。