鑑賞「現代の俳句」 (33)                  沖山志朴

海と空何も語らず沖縄忌三代川玲子〔春燈〕

[俳壇 2023年 10月号より]
 どこまでも続くエメラルドグリーンの海、澄み切った空、人びとは幸せそうに町を行き交う。しかし、国内最大の地上戦が展開された沖縄、ここでは、二十万余の尊い生命が奪われ、計り知れない財産が失われた。
 春耕の会員であった伊佐節子さんの連載を思い起こす。「・・私は連日の避難行に疲れ果て、睡魔に襲われたので紐でお腹をくくられ、寝ながら引きずられて歩いた。壕に避難したが子持ちは出て行けと銃剣を突き付けられ、数家族が出された。・・夜は寒く祖母の懐で眠った。食糧難と風雨、連日の避難行で疲労困憊した祖母は終戦を待たず岩陰で亡くなり、叔母も終戦直後に亡くなった。・・」(春耕 令和4年7月号「沖縄の風景26」)今、沖縄に住む若い世代ですら、この悲惨な戦争があったことを知らない人が増えているという。

大旱鱗のごとく土剝がれ太田土男〔草笛・百鳥〕

[俳句 2023年 10月号より]
 農水省の研究機関等で、草地生態学を専攻してこられた作者には、『田んぼの科学』などの著書もある。これまでにも、多くの農にかかわる俳句を作ってこられたが、掲句も大旱の農地の態様をよく観察されていて感心する。
 どこまでも続く干上がった田んぼ。鱗のように割れた土の端は、反りかえっていていかにも無残な様子。その景色は、農民の悲しみをも象徴している。旱や冷害に苦しんだ農民たちの生活向上をめざし、粉骨砕身した宮沢賢治の姿がふと重なってくる句である。 

錬達の唄声統ぶる踊りの輪関森勝夫〔蜻蛉〕

[俳壇 2023年 10月号より]
 ふと数十年前の子供の頃のことが蘇る。村々には、美しい唄声を披露する、まさに錬達の古老が二人や三人いたものである。今日のようには放送機器の発達していない時代、その古老が広場の櫓の天辺に上っては、代わる代わる小節を効かせたものである。
 多少ペースの違うその唄い手に合わせるようにして、踊りの手足が、そして輪が動き始める。電球の乏しい光りの下、踊り手にも、唄い手にも不思議な一体感があった。

自在なる影のはやさに鬼やんま中村姫路〔山暦〕

[俳句四季 2023年 10月号より]
 鬼やんまは、日本で最大の蜻蛉。加速した時の速さもさることながら、水の上などでホバリングしながら、池や川などを飛翔するその姿には、貫禄すら感じられる。
 掲句で、注目する表現の一つが中七の「はやさに」の「に」である。作者は、「はやさや」とせずに、あえて「はやさに」とし、この後の語の省略を図っている。読者はおのずと「テリトリーを回っては、自由自在に獲物を捕らえているよ」などと、言葉を補いながら一句を更に読み深める。俳句はまさに助詞の文芸である。

濁流の中より蛇の上がりけり山本呆斎〔梨花〕

[俳句界 2023年 10月号より]
嘱目吟なのであろう。大雨の後の濁流を眺めていると、その濁りの中を一匹の蛇が流されてきた。やがてその蛇が岸辺に這い上がってきては、草むらに隠れる。その驚きを率直に表現した句。
 読者の中には、まさかそのようなことがあるはずがない、と思う人もいるかもしれない。しかし、実際にあるのである。大雨の後の河原で、この辺りには蝮はいない、と聞いていた人が、うっかり上流から流されてきた蝮に触れてしまい、噛まれ大変な事態になったこともあった。目にした偶然の出来事に説得力がある。

忘れ物したる心地や更衣白濱一羊〔樹氷〕

[俳句 2023年 10月号より]
 更衣をした朝の不思議な感覚を詠った句。それを「忘れ物したる心地」のようだと喩える。この比喩が絶妙である。
 ふと身が軽くなったような、更衣をした朝の爽涼感とも違和感ともつかぬ微妙な皮膚感覚を見事に言い当てている。内面の微妙な変化を句にするのは、なかなかむつかしい。しかし、それをなんともまあ的確に言い当てていることよと感心するばかりである。

岩に背を寄せて滝道譲り合ふ梅枝あゆみ〔煌星〕

[俳壇 2023年 10月号より]
 「岩に背を寄せ」が的確である。この句またがりの描写により、滝へと続くこの渓谷の道の状況がよく理解できる。よほど心が洗われるような名瀑なのであろう。「もうすぐですよ」「ありがとうございます」。見ず知らずの人たちの励ましの会話までもが聞こえてくるようである。
 滝が季語として扱われるようになったのは、意外にも近代になってからだという。今後、今年のような猛暑が続くことは十分考えられる。涼を求める存在としての滝はより重要度を増していくものと考えられる。
(順不同)