古典に学ぶ (88) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を繙く
─ 『源氏物語』という物語名の意味するもの② ─
実川恵子
光源氏は、母の身分が低かったために源氏になったわけでなく、親王として継承者として残り続けることもできたが、あえて臣下におとされた。
なぜ、帝が皇子の皇位継承の可能性の芽をつんだのか。また、その道を閉ざそうとしたのか。それは、最愛の更衣を失わなければならなかったことを、帝はどう受け止めたかにかかわっている。それは、更衣の孤独で、無惨な死の印象が、帝に二度と同じ過ちを犯すまいとする決意を促したこと、また世間の非難や反撥によって死に至らしめてしまったという慚愧の思いが、残された皇子である光源氏に対しては、二度と同じあやまちを犯してはならないという強い決意に変わったことにある。
しかし、『源氏物語』はその経過については一切言及しない。帝の真意をはかりかねるように描かれる。帝は高麗の人相見の判断と同じように「源氏になしたてまつるべく思しおきてたり」(臣下に列して源氏にして差し上げることにお決めになった)とある。読者は、ただ、帝の意外な臣籍降下の結論を知らされるだけなのである。当然、その間の帝の心に渦まく葛藤、光源氏を愛する思い、光源氏を危険から遠ざけなければならないという冷静な判断のせめぎ合い、心の動揺などについては、物語はそれらを一切具体的に描くことはない。読者は、その唐突な臣下に下すという結論から推測するのみなのである。これが、『源氏物語』という物語の本質なのである。
『源氏物語』は、そのすべてを語り手が説明する物語ではなく、読者一人ひとりの読みが、背景や人物の心情を推し量り、類推し、憶測し、再構成する物語なのである。つまり、さまざまの情報を手がかりとして投げ出し、配置するにすぎないのである。絶えず、「あなたならどう読む」という疑問を投げかける装置が働く仕掛けになっている。
では、当の本人である若き光源氏はその現実をどう受け止めたか。物語ではその心中については、ひたすら沈黙を守るが、次第に成長するにつれ、明らかになりつつある第一皇子と光源氏の落差は、抑えきれない不満を皇位から疎外された光源氏の心のうちに醸成させるのである。
そして、物語は母桐壺更衣の生き写しと言われ、入内してきた若い妃、藤壺への母恋にも似た幼い憧れが、やがて不満を抱き従順ではない、不逞な犯しの衝動へと変化していくのである。それはどのような不満なのであろうか。憶測するに、自分は父の持ち駒でしかない。さらに政治的な判断から左大臣家、葵との政略的結婚という強制によって、光源氏は父帝の意図の誤解がやがて渦まく欲求不満へと動き出すのである。それを解消すべく、人生を出発させるのである。
『源氏物語』とは、彼から奪われた天皇の座に就く可能性を、藤壺との密通で、そこに生まれた皇子の存在によって取り戻し、回復しようとする恐ろしい〈罪〉の物語なのである。光源氏は、父の過ちを繰り返すことなく、密かに潜行させ、世間の目をくらますことでその実現を計ろうとするのである。
この冒頭に語られた桐壺帝と更衣の破滅的な恋愛は、息子光源氏によって、破滅することなく、しぶとく人目を忍んで生き延びる恋愛へと変貌し、それが見えない執念の糸となって物語を貫いていくのである。物語の始まりとしての冒頭の「桐壺」の巻は揺れとずれ、そして不穏な空気に包まれた数奇な物語世界として開かれていく。『源氏物語』の名称は、単に光源氏が主人公だからではなく、物語の本質である王権とそれを取り巻く社会を描き出した物語なのである。
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