コラム「はいかい漫遊漫歩」 松谷富彦
第36話 良寛さんの遠い親戚的こころ
遊俳句会としては、昭和44年1月のスタート以来40余年、ギネスものの長寿を誇ってきた東京やなぎ句会。平成23年に月例句会500回突破を記念して『楽し句も、苦し句もあり、五・七・五』(岩波書店刊)を出したが、メンバーの俳優、小沢昭一さん(俳号変哲)が翌24年に、桂米朝さん(同88)が27年3月、句会宗匠の入船亭扇橋さん(光石)が7月、文学座代表の加藤武さん(阿吽)が8月、さらに劇作家の大西信行さん(獏十)が28年1月に相次いで旅立った。
今回は、変哲こと俳優、エッセイストの小沢昭一さんの俳句について触れる。
第2回例会に出した一句〈 陰干しの月経帯や猫の恋 〉を終生の自賛句と言って憚らなかった。写真館の長男で東京っ子。旧制麻布中学で句会仲間の大西信行、加藤武と同級生。ほかにフランキー堺、仲谷昇、なだいなだらがいた。
昭和20年4月、海軍兵学校に入校するも8月に終戦。麻布中に復学後、早大文学部に進み、大西、加藤らと全国初の学校落研を創設した。顧問は暉峻康隆助教授(当時、後に教授)、西鶴研究の第一人者で、桐雨の俳号を持つ俳人でもあった。だが、小沢さんが俳句を捻り出したのは、やなぎ句会から。
変哲は父親が使っていた俳号。爾来、亡くなるまでに約4千句を詠み、全句を盛り込んだ句集『俳句で綴る変哲半生記』(岩波書店刊)を刊行。書中、〈 母方の祖母は良寛の遠縁。「鉄鉢に明日の米あり夕涼 良寛」の句が好き〉と。刊行10日前に前立腺がんのため83歳で没したのは惜しまれる。
ゲスト俳人の選句で「天」となった変哲詠句から――
茶のほうのしかるべき家松手入れ(鷹羽狩行選)
寒釣や同じ顔ぶれ同じ場所(同上)
寒月やさて行く末の丁と半(藤田湘子選)
越後屋を出て馬車の風インバネス(黒田杏子選)
第37話 鉄鉢に明日の米あり夕涼 良寛(俳号 大愚)
小沢昭一さんが全句集『俳句で綴る変哲半生記』の中で〈 母方の祖母は良寛の遠縁〉と書いた続きから始める。同書の「良寛さんとの縁」から引く。
〈 母方の祖母は、新潟県の与板の出身。与板の庄屋は代々新木与五右衛門を名乗っていて、明治になり最後の与五右衛門の娘が祖母なんです。…江戸末期の九代目の次男(俳号橘以南)は新木家を出て(出雲崎の名主)山本家の婿養子となり、生まれた長男が良寛だったという次第なんですね。〉
ちなみに出雲崎は、元禄2年(1689)夏、松尾芭蕉が「おくの細道」紀行の途次、当地に一泊、〈 荒海や佐渡によこたふ天河 〉の句を遺している。宝永五年(1708)には、弟子の各務支考も訪れ、〈 五月雨の夕日や見せて出雲崎 〉の句を詠んでいる。こうしたことから当時、出雲崎は俳諧が盛んになり、支考の美濃派がもてはやされた。宝暦5年(1755)には、当地の俳人、近靑庵北溟が音頭を取り、芭蕉、支考、その弟子、蘆元坊顕彰の「俳諧伝燈塚」を出雲崎尼瀬の妙福寺境内に建立した。北溟の弟子の一人が良寛の父、以南。
本題の良寛俳句に入る。曹洞宗の禅僧良寛は、歌人、漢詩人、書家として知られるが、父以南の影響もあり、俳句も捻った。頼まれて画賛や色紙に書いた遺墨が、生まれ、没した越後を中心に残された。良寛研究家、谷川敏朗氏が遺墨、写本、活字本から収集した『校注良寛全句集』〈春秋社刊〉から引かせてもらう。
〈 鶯や百人ながら気がつかず 〉「小倉百人一首」の歌人たちは、百人とも鶯の(鳴き音の)すばらしさに気づかず、だれも詠んでいないのは不思議なことだ、と谷川氏は句解。〈 鶯に夢さまされし朝げかな 〉と詠む良寛。〈 春雨や静になづる破れふくべ 〉〈 秋日和千羽雀の羽音かな 〉〈 柴垣に小鳥集まる雪の朝 〉最後に良寛らしい一句〈 手ぬぐひで年をかくすやぼんをどり〉をあげておく。
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