コラム「はいかい漫遊漫歩」 松谷富彦
第44話 獅子舞の目こそ哀しき平和かな 辻井喬
辻井喬(本名 堤清二)さんが86歳で亡くなって2年後、2015年に『わが記憶、わが記録―堤清二×辻井喬オーラルヒストリーー』(中央公論社刊)が出版された。高名な学者3氏を質問者に膝を交えること13回、合計29時間に及ぶインタビューに答える形で、セゾン文化を築いた経営者そして作家、詩人と2つの顔を持って生きた人物が語りつくしたリアルな自叙伝だ。
軽井沢、箱根を切り開き、東京商科大学(現・一橋大学)を神田から呼び込み、北多摩の地に文化学園都市(国立学園・隣接の国分寺と立川の頭文字を繋げた現国立市)を築いた堤康次郎を父に持つ。女性に奔放な康次郎家の家庭内は複雑で、辻井さんは妾腹の子だった。康次郎は僻地への移転に反対する大学職員のために子弟の教育施設、私立国立小学校を作り、わが子、清二も通わせた。
東大時代は共産党に入党、卒業後は衆院議長まで務めた保守政治家、康次郎の秘書を経て一店舗だった西武百貨店を任され、経営者の道へ。セゾン文化を構築した後、文人へと転身を果たした辻井さんは、自叙伝の中で相性の悪かった中曽根康弘元首相のことを問われ、〈 ところが最近よくなったのですよ。きっかけは俳句でして、あの人の俳句はかなりなものです。〉と答えている。
辻井さんは、1999年から「並木句会」(主宰・江口克彦元PHP総研社長=現参院議員)の共同主宰を務めた俳人でもあった。同句会の選集『玄中の玄』(2009年)のあとがきで〈 俳句と現代詩はどこかで通底しているような気が…私には俳句はもっとも認識の冴えが要求される詩形〉と書き記している。
毎日新聞(2014年5月24日付け)が報じた未発表句24句から。
大根煮る湯気や亡き母一人旅
過ぎし日を忘れたき朝の初鏡
並ぶ達磨みな目がなくて薄曇り
どこ見ても暗き空なり初詣
(タイトル句も)
第45話 浅草徘徊「どぜう屋」
インターネットの検索エンジンに「どぜう」と打ち込むと、「駒形どぜう」「どぜう飯田屋」と泥鰌料理の店がずらり。一方、「どじょう」「泥鰌」で検索すれば、まず「ドジョウ-Wikipedia」が出てきて、コイ目ドジョウ科ドジョウ属ドジョウの説明、以下泥鰌に関する諺、名前の由来などが続く。なぜか?
種明かしは、浅草仲間だった脚本家、灘千造さん(故人)の随筆「私の浅草」で。〈 どぜうといえば、駒形。それほど駒形どぜうは、有名である。そのためか、ながい間、どじょうはどぜうと書くのが本当と、思い込んでいた。ところが旧仮名づかいでも、どじょうが本当で、どぜうは間違いなのだそうである。四文字というのは死に通じる。それを嫌って三文字のどぜうに…〉
当の駒形どぜうの「のれんの由来」から、より詳しいいきさつを。〈 仮名遣いでは「どじょう」。それを「どぜう」としたのは初代越後屋助七の発案です。 文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらったのです。これが評判を呼んで店は繁盛。江戸末期には他の店も真似て、看板を「どぜう」に書き換えたといいます。〉
駒形どぜうの評判に浅草の同業、飯田屋も深川の伊勢喜も「どぜう」に変え、現在に至っている。今日、「どぜう」と言えば蔵前通りの「駒形どぜう」を指すほどで、観光バスのコースにも入る盛況ぶりだが、創業から五代続く合羽橋通りの「どぜう飯田屋」も地元浅草っ子だけでなく庶民的な雰囲気を愛する常連客で繁盛している。落語家や作家などと隣り合わせになることも。
宵の町雨となりたる泥鰌鍋深見けん二
ひぐらしや煮ものがはりのどぜう鍋久保田万太郎
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