コラム「はいかい漫遊漫歩」 松谷富彦
(54)空白の俳句史百年 その1
改革や革新を大きなうねりに乗せるには、インパクトのあるキャッチフレーズが必要だ。俳句革新をめざした正岡子規が使った“殺し文句”は〈天保以後の句は概ね卑俗陳腐にして見るに堪へず。称して月並み調といふ〉だった。
新聞「日本」というマスメディアに拠り、弱冠28歳のときに編纂刊行した『俳諧大要』に書き込まれた一節である。この30余文字によって、小林一茶の天保以降から明治中期までの俳句史百年がブラックホールに投げ込まれ、忘れ去られることになったのだ。蕉風、写生俳句を標ぼうする子規の志は高浜虚子らに引き継がれ、俳人も俳句研究家も“消えた百年”の俳句を閲することなくさらに百年が過ぎ、今日に至っている。
『俳諧大要』の1行は、全否定ではなく「概ね」と断っているではないか、と闇に消された俳句探しを別々の時代に始めた2人の俳人が、努力を重ねて俳句史の断層を埋める本を刊行した。一つは近刊の『子規は何を葬ったのかー空白の俳句史百年―』(今泉惇之介著 新潮選書)であり、もう一書はこの力作俳句史を生む手掛かりになった1975年発刊の『近代俳句のあけぼの』(市川一男著 私家版)だ。今泉氏は新聞記者出身の俳人、故人の市川氏は弁理士で原石鼎門下で活躍した俳人。ともに闇に捨てられた俳句から月並み調とは無縁の数多くの佳句、秀句を発掘、収集、俳句史の穴を埋めたのである。
ちなみに芥川龍之介が激賞した伊那の放浪俳人、井上井月は、子規が20歳のとき没し、革命家は井月の俳句に接することもなくその15年後に亡くなった。
月並み調宗匠の代表格とされる穂積永機、三森幹雄と放浪俳人、井月の佳句を一句ずつ。
灯を出せば朧うごくや水の上 穂積永機
行き違ふ時の早さや渡り鳥 三森幹雄
春風や碁盤の上の置き手紙 井上井月
(55)空白の俳句史百年 その2
正岡子規が後20年長生きしていたら、伊那の放浪俳人、井上井月の俳句に接し、「空白の俳句史百年」の様相も大きく違ったものになったはずだ。
子規の死から19年後、伊那出身の医師、下島勲(俳号空谷)が刊行した『井月の句集』によって、井月は初めて世に知られる存在になった。初句集の巻頭に子規の弟子、高浜虚子は〈丈高きをとこなりけん木枯しに〉、内藤鳴雪は〈秋涼し惟然の後に惟然あり〉の句を贈った。下島の句集刊行を助け、跋文に「炯眼の編者が、この巨鱗を網にしたことを愉快に思はずにはゐられない」と書いた芥川龍之介が、絶賛したのが〈咲いたのは動いてゐるや蓮の花〉の句。
芥川の自死後、下島が埋もれた井月俳句をさらに発掘しようと依頼した伊那高女の教師、高津才次郎の努力で約600句が見つかる。ところが、句集搭載分もふくめ1600余句のうち誤って紛れ込んだ他人(主に添削指導した弟子たち)の句が約220句あることを高津が突き止めた。井月が佳句として書き留めていたもので、そのなかに芥川が激賞した蓮の花句(橋爪山州作)も入っていた。
『空白の俳句史百年』の著者、今泉惇之介氏は「下島の芥川に対する自責の念は、察するに余りある」としながらも、この失敗は“失われた俳句百年”の中で「井月のような句をつくる人が伊那地方に大勢いたことが明らかになった」それこそ「怪我の功名」と書く。その通りだろう。この空白百年の間に生れた佳句、秀句は、全国に数多く埋もれているに違いない。
柳から出て行く舟の早やさかな 井上井月
落栗の座を定めるや窪溜り 同
行き暮し越路や榾の遠明り 同
雁がねに忘れぬ空や越の浦 同
☆伊那出身で春耕同人、「銀漢」主宰、伊藤伊那男著『漂泊の俳人 井上井月』(角川学芸出版)は、井月俳句の紹介、鑑賞付きのお勧め書。
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