コラム「はいかい漫遊漫歩」 松谷富彦
(100)死が画面に張り付いた「アッツ島玉砕」
先月号に続いて巨匠、藤田嗣治と戦争記録画の話を進める。平成26年に文化勲章を受章した洋画家、野見山暁治さんは、97歳の平成30年5月に刊行した随筆集『みんな忘れた―記憶のなかの人』(平凡社刊)で書く。
〈 戦争が終って何年も経ってのことだが、パリでぼくはあるきっかけから、フジタの信頼を受けるようになった。身近に接してみると、この巨匠はおそろしくお人好しだ。それは信じられないくらいで、蔭で夫人がだんだん人嫌いになるのも分かる。あんなにも利用されたり、傷つけられ、金銭を騙し取られるのを見ていると、ぼくでさえ、いらだつ。〉と。
22人の交遊、付き合いのあった人々の思い出話の1つ、画学生上りで戦時中、戦争記録画制作に多忙な藤田の画室手伝いを務めた「ヤタベ・ツヤ」さんの項での文章である。ヤタベさんから聞いた話として野見山さんは、書く。
〈 やがて終戦。フジタは邸内の防空壕に収めてあったそれまでの戦争画を1枚残らずアトリエに運び込み、キャンバスに書き込んだ日本語のタイトルや署名を、すべて横文字に書きかえた。ヤタベさんが訝しがると、今までは日本人しか見られなかったが、これからは世界の人が見る、とフジタは答えたそうだ。〉
〈 フジタの戦争画は、敵も味方もない、ただ死そのものが画面に張りついている。しかし、軍部も、それから信じられないことだが、画家本人も、反戦画だとは思ってもいないのではないか。アッツ島玉砕の絵を初めて見たとき、やがて戦地に行くぼくは、身が竦んだ。
フジタはいったい、どういう人なのか。パリで接した画家は、思いやりのある優しい老人だった。しかし、ぼくは、ずっと分からないままでいる。〉
昭和20年8月15日、日本は全面降伏した。進駐してきたマッカーサー元帥指揮下のGHQ(連合国最高司令官司令部)による戦争記録画の収集が始まり、押収作品は東京都美術館に集められた。この作業に藤田嗣治が係わることになったいきさつを前号で紹介した増子保志さんの日大大学院紀要「GHQと135点の戦争記録画」から引く。
戦争記録画収集を担当したOCE(工兵司令官部)は、終戦前まで陸軍美術会長を務めていた藤田を呼び出す。〈面談を行い、収集作業の正式な顧問に任命して、翌日に身分証明書の交付を日本政府に命じた。 戦争記録画の収集は「多少とも非公式かつ個人的な事情から」始められたもので、藤田をこの任務に巻き込んだのは、藤田のパリ留学時代の私的な友人である美術家でもあったバース・ミラー少佐であった。〉
藤田とともに収集作業に力を尽くした洋画家、山田新一については、次話で書く。
(101)「戦争協力者」のレッテルを貼られて
戦時中、朝鮮軍報道部美術班長だった洋画家、山田新一(1899―1991年)は、敗戦直後、「聖戦美術展」開催のため京城(ソウル)駅倉庫に集積されていた戦争記録画64点を分散、秘匿した上で10月に帰国した。増子保志さんの紀要から引く。
〈 翌年、陸軍美術協会の解散事務所からGHQ出頭の連絡を受け、当時の同協会会長であり、すでにGHQ司令部直属の嘱託となっていた藤田嗣治との話で委細を承知した山田は、GHQの工兵司令官部に出頭し、戦闘美術家部隊(CAS)に配属された。
山田の任務は、「日本の戦争記録画の一切を可能な限り蒐集処理する」とされ、GHQにより作品の保管場所として東京都美術館の中央五室が接収された。山田の作業は東京近郊から弘前、秋田、仙台、熊本等へと範囲を拡げ、最終的には京城に山田が秘匿した作品群を戦闘美術家部隊の責任者であるアンダーソン大尉とともに回収して作業を終えた。〉
戦争記録画の収集は、当初、GHQから藤田に依頼され、藤田も収集に熱意を持っていたが、仮病を使って任務から逃れる。そのため収集作業は、山田が全部引き受けることになった。藤田の任務回避の背景には、陸軍美術会長だった藤田に的を絞った「戦争協力者」の非難の声が高まっていたことがある。藤田や山田を巻き込んだ画家の戦争責任の追及騒動は、GHQからの指示ではなかった。紀要で増子さんは指摘する。
〈 GHQに追放されることを怖れた日本人画家達の側から始まったものであった。戦後の画壇での責任追及においては真摯な議論がたたかわされたとはいい難かった。論争のきっかけは戦争中、軍に協力した画家が直ちにGHQに協力するという行動への憤りに過ぎず、しかもその事実関係の認識自体が誤りであった。むしろ単なる、嫉妬や羨望による画家同士の足の引っ張り合いに近い低レベルなものであった。〉と。
藤田は占領下の昭和24年、渡仏の許可を得て君代夫人とともに出国する。出発に先立って「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないでください。日本画壇は早く国際水準に到達してください」との言葉を残して祖国を去った。
日本国籍を返上、フランス国籍を取ったレオナール・フジタは、「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく語っていたという。 〈 私は、世界に日本人として生きたいと願ふ、それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだらうと思ふ。〉(藤田嗣治『随筆集、地を泳ぐ』より)
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