コラム「はいかい漫遊漫歩」    松谷富彦

164自転車に乗った留学生、漱石

 夏目漱石は、熊本の旧制五高教授の現職のまま明治33年(1900)9月、英語研究のためイギリス留学に旅立ち、10月末ロンドン着。留学費不足による安下宿生活に耐えながら猛勉強、1年も経たず神経衰弱になった漱石は「文学論」のまとめ作業もあって、下宿の一室に閉じこもりがちに。他の留学生を通じて、日本では「夏目発狂」の噂が立った。

〈 ロンドン滞在2年目の漱石はなぜか日記を残していない。この1年間(1920年)のことは日本にあてた書簡でしか知ることができず、…日記以外では、ロンドン時代のことを書いたエッセイが数編あり、当時の漱石をわずかではあるが知ることができる。それらのなかに「自転車日記」という興味深い一編がある。〉(清水一嘉著『自転車に乗る漱石』朝日新聞社刊)

  続けて同書から引く。〈 漱石最後の下宿、クラバム・コモンのリール家にいたときの経験を書いたもので…「西暦1902年秋忘月忘日、白旗を寝室の窓に翻へして下宿の婆さんに降参を乞ふや否や、婆さんは20貫目の体躯を3階の天辺迄運び上げにかかる」という一節からこのエッセイは始まる。婆さんが20貫目の身体を息を切らして運んできたのは、(引きこもりを見かねて)漱石に「自転車に御乗んなさい」と申し渡すためだった。…《嗚呼悲しいかな此自転車事件たるや。余は遂に婆さんの命に従って自転車に乗るべく、否自転車より落るべく「ラヴェンダー・ヒル」へと参らざるべからざる不運に際会せり。》このときから漱石と自転車との悪戦苦闘の日々が始まる。〉

  20世紀初頭の当時、ロンドンでも自転車がようやく庶民の手に届くところまで来た時代だった。中古自転車を買って始めた漱石の練習は「大落五度小落は数を知らず、石垣にぶつかって向脛を擦りむき、立木に突き当たって生爪を剥がす体たらくでついに物にならざるなり」とエッセイに書き記しているが、〈 実際はかなり上達して、同じころロンドンにいた友人、岡倉由三郎(天心の弟で英文学者)の下宿まで自転車で訪ねて行ったという話さえ伝わっている。〉と同書。

  帰国後、漱石が自転車に乗ったという記録はない。

  秋風の一人をふくや海の上漱石

(横浜港出立を前に詠む)
  漱石の遊俳的面白俳句を3句――

永き日や欠伸うつして別れ行く

(「松山客中虚子に別れて」の前書)

時鳥厠半ばに出かねたり

西園寺公望首相主催の招宴を句を添え断る)

秋風や屠られに行く牛の尻

痔の手術で入院の際に詠む)

 

165自転車の三角乗りを知っていますか


  子供時代に自転車の「三角乗り」をした覚えがあるのは、70代以上の世代だろう。終戦の年を挟んだ2年間、岐阜県西部の田舎町に疎開していたコラム子も、母の手伝いで三角フレームの頑丈な大人用自転車を駆って数キロはなれた町へしばしば用足しに出かけた思い出がある。

 大柄とは言え小学2、3年生だった私は、26インチの鉄製三角フレームのサドルに座ると爪先がペダルに触れるのがやっとで、走行は三角乗り。と言うのも、跨ぐと子供の脚丈では前輪と後輪を繋ぐトップチューブ(鉄棒)が邪魔でペダルをしっかり踏めない。そこで当時の子供たちが考え出したのが、右足を三角のフレームに通し、揚げたペダルを踏み込んで発車させ、走り出したところで左足をもう一方のペダルに乗せ、ガッチャンガッチャン交互に踏み、下ろしながら乗るアクロバットさながらの走法だった。

 トップチューブが下方にカーブした婦人乗り自転車なら、サドルに座らないまでももう少し楽な姿勢で乗れるのだが、戦中から戦後にかけて婦人乗り自転車、さらに子供用自転車まで持っている家は少なかった。

〈 昭和34年頃までは子ども車の生産台数の占める割合は12%前後で変化がなかった。また大手製造会社製の大人向けで1万4千円〜2万8千円という価格は公務員の初任給の1~2ヶ月分に相当した。〉(自転車文化センター・ホームページ)

  習熟した後も私を含め子供たちはよく転んだ。子供用自転車が庶民の子供らの足になるのは、高度経済成長期に入ってからのことだった。

自転車で鳩分けてゆく恵方かな飯島晴子

置き去りの幼な自転車鳥雲に堀口星眠

腹癒せに自転車蹴る子葱坊主森田栄子

自転車に昔の住所柿若葉小川軽舟

自転車の灯を取りにきし蛾のみどり黒田杏子

自転車の少女把手より胡瓜立て川崎展宏

自転車で田を見にくるや栗の花飴山 實

自転車を倒し七月匂いけり和田悟朗

蕎麦の花自転車赤き郵便夫相馬遷子

天高く自転車を漕ぐ尼僧かな仙田洋子

たてかけて自転車光る夜寒の木鈴木六林男