コラム「はいかい漫遊漫歩」    松谷富彦
(176)春寒やしり尾かれたる干鰈   村野四郎

 北原白秋門下の歌人、村野次郎を兄に持ち、荻原井泉水の『層雲』に拠って俳句の修行をした後、詩人の道を歩んだ村野四郎の俳句観を紹介する。

 四郎は、詩人になった後も田中冬二、城左門、安藤一郎ら詩人仲間と戦中に解散した俳誌『風流陣』で句作を続け、終戦後はかつての仲間と『風船句会』を立ち上げ、作句を楽しんだ。たんに俳句を詠むだけでなく俳論「現代詩としての俳句」を俳誌に発表するなど短詩型としての俳句とその在りように終生深く関心を持ち続けた。自らも次のように記している。

 〈 私は、詩人になる前に俳人であった。くわしく言えば大正の末期、荻原井泉水の「層雲」で、栗林一石路や大橋裸木たちと、自由律俳句の勉強をしていた。わずか数年ではあったが、これが私の詩の道における丁稚奉公時代で、この俳句という狭い土俵の中で勝負をするために、言葉を大事にすることが、どんなに大切かということを痛いほど教えこまれた。

 …言葉はタダだからといって、むだ使いしているかぎり、いつまでたってもロクな詩が書けないということ、いや本当の詩語というものは、ものすごく高価につくものだという考えは、今もって少しも変っていない。〉

 〈 私が、今日なお、俳句に特別の関心や興味をもつのも、そうした言葉の象徴力の一つの型を、あの小さな詩形に郷愁するからではないかと思う。

 それだから、たとえ現代の俳句に、どんな思考やパタアンが生まれようと、あんまりこだわらない。芭蕉でも凡兆でも、抒情派でも人間探求派でも、前衛派でも自由律派でも、おもしろいものはおもしろいし、詩としてチープなものは、面白くない。季とか切れ字とか、17音律とか、作る側にはそれ相当の意味のあることは充分知っているつもりだが、そうしたものが詩的空間をつくるのに役立っていなければ、無駄だと思うだけの話である。〉

 〈 俳句に限らず、固く鎖された伝統形式には、とかく酸素が欠乏してくるものである。酸素の不足は、精神の活動を不活発にする。こうした状態は認識のコンベンショナリスムに発するもので、これが、いわば形式の逆支配的現象なのである。〉(現代文学大系『現代句集』第69巻月報「俳句と私」筑摩書房 )

 1960年に村野四郎が詩集『亡羊記』で第11回読売文学賞を受賞したとき、室生犀星が「現代詩の一頂点」と高く評価したことを書き留めて置く。

 タイトル句に対する詩人で俳人、八木忠栄さんの句解と、四郎句を3句記す。

 〈 魚の干物の尾はもろくていかにもはかない。焼けば焦げて簡単に砕けるか欠け落ちてしまう。まだ寒さが残る春の朝、食膳に出されたカレイの干物にじっと視線を奪われながら、食うものと食われるもの両者の存在論を追求している、といった句である。いかにも新即物主義(ノイエ・ザハリヒカイト)の詩人らしい鋭い感性がそこに働いている。〉(『増殖する俳句歳時記』より)

悔もちてゆく道ほそし寒椿

食器洗ふおとも昏れをり寒椿

桜ぬくとき夜は田舎の先生のおるがん

 

(177)俳人の愛する身も蓋もない醜名の “名花 ”

 植物図鑑を繰っていると、目が釘づけになる珍名の花に出合うことがある。例えばタデ科の「秋の鰻攫(つかみ)」「継子の尻拭」、「牛の額(別名:溝蕎麦)」、どれも薄紅の小花が可憐な草花というのも面白い。

 俳詠みなら先刻ご存知の夏のアカネ科の「屁糞蔓(別名:灸花)」、ゴマノハグサ科の「犬の陰嚢( ふぐり)」 、ドクダミ科の「毒だみ(別名:十薬)」は、どれも俳人御用達の人気の句材花。へくそかずら、いぬのふぐりともに小花が美しい草花であり、どくだみも八重種は純白の花姿が見事で、最近は公園の花壇や花好きな人の庭先でも目にすることが多くなった。

   醜名の句材花のうち、いぬのふぐりは、TPOによっては口にするのを憚られても、れっきとした身体器官の名称だからまだいいが、「屁」に「糞」を重ねて止めを刺される夏の季語「へくそかずら」。古来からの名称だからなおのこと可哀想。

  万葉集に2首が載る歌人、官人、高宮王(たかみやのおおぎみ)は、マメ科のさいかち( 皁莢)と屁糞蔓を句材に 

皀莢(さふけふ)に延(は)ひおほとれる屎(くそ)葛(かづら)

       絶ゆることなく宮仕(みやづかへ)せむ(  万葉集16‐3855)

 と詠んでいる。((注:皀莢は落葉高木で別名カワラフジ。皀角子、皁莢、梍とも表記する。)

    さすがに大方の歳時記が花姿から名付けられた別名、灸花(やいとばな)を主題とし、屁糞蔓を傍題に置きながら〈 名をへくそかずらとぞいふ花盛り 〉 の虚子の句を例句の頭に引いている。

   ところで問題の臭気だが、鼻を寄せれば漂ってくると思っている人が多いが、毒だみ同様に葉や茎を揉み潰さなければ、顔を背ける悪臭はしない。

   可憐な花姿から早乙女花の別名もあり、醜名供養の作句はいかが。

表札にへくそかずらの来て咲ける飴山 実

野の仏へくそかずらを着飾りて石田あき子

老いまじく歩けばへくそかずらかな湯浅康右

みなでかぐへくそかづらのへのにほひ松本秀一

蛇籠より蛇籠へ渡り灸花高野素十

降りぐせの山の宿也灸花星野麦丘人

灸花無数に咲けば疎まるる檜 紀代

引つぱつてまだまだ灸花の蔓清崎敏郎