はいかい漫遊漫歩     松谷富彦

(182)戦争が廊下の奥に立つてゐた  渡邊白泉

 タイトルの句〈 戦争が廊下の奥に立つてゐた 〉は、新興俳句の俳人、渡邊白泉(1913-1969)の最も人口に膾炙した詠句の一つ。そしていま、プーチンの軍事侵攻の修羅場に立たされたウクライナの人達の恐怖の思いに重なるだろう。

 安倍内閣が「安全保障関連法」を強行採決しようとしていた平成27年(2015)夏、反対を表明した全面広告が全国紙に掲載された。同句が大きく引用されたことで、俳句に関心がなかった人々にも強い印象を与えることになった

  この句は「京大俳句」昭和14年(1939)5月号に掲載された5句のうちの第3句。昭和12年に始まった日中戦争は、日本軍の深追いによって戦線が拡大し、膠着状態、長期戦の事態になっていた。当然、日本軍の戦傷、戦死者の数も増え続けた。そうした戦線と銃後の状況下で白泉は詠んだ。

銃後といふ不思議な町を丘で見た

包帯を巻かれ巨大な兵となる

戦場へ手ゆき足ゆき胴ゆけり

赤の寡婦黄の寡婦青の寡婦寡婦寡婦

憲兵の前で滑ってころんじゃった

夏の海水兵ひとり紛失す

霧の夜の水葬礼や舷かしぐ

 印の句は昭和19年(1945)夏に応召、横須賀海兵団に配属された中での詠句である。6月、マリアナ沖海戦敗北、サイパン島3万人玉砕、10月、レイテ沖海戦敗北、同20年2月、硫黄島守備隊2万3千人玉砕という状況下だった。

 俳人、今泉康弘は労作の『渡邊白泉の句と真実――〈 戦争が廊下の奥に立ってゐた〉』で書く。〈 白泉の句の新しさは二つある。一つは、音の響きの美しさと実験精神とが調和していること。もう一つは、戦争への違和感を高い詩的次元において表現し得たことである。〉と。

 続けて引く。〈 近代になって「写生」が導入されると、どう描くかということが重視される。その反面、どういう響きにするのかという工夫は軽視された。とりわけ、1920年代から30年代、虚子ひきいる「ホトトギス」は「客観写生」の理念を掲げていた。それは自然界の対象をひたすら無心にみつめて観察し、描くというものである。そこでは観察すること以外の工夫は邪(よこしま)なものだとして否定された。音の響きに意を払い、工夫することも排除された。水原秋櫻子はこうした「ホトトギス」に反発し、離脱する。そしてみずからの俳句観を込めて『俳句の本質』(昭和8年)を出版する。その冒頭に「俳句は抒情詩である」という宣言がある。秋櫻子にとって「抒情」とは、音の響きによって情緒を醸し出すことである。そのさいの音の響きを秋櫻子は「調べ」と呼ぶ。〉と今泉。

 白泉は自筆本『白泉句集』のあとがきに〈 『俳句の本質』が初心の頃の自分を大いに啓発してくれた。〉と記す。昭和8年(1933)に慶應義塾大学の予科から経済学部に進学した白泉は、『俳句の本質』に啓発され、著者、秋櫻子主宰の「馬酔木」に投句を始める。敬称略(続く。)

(183)街燈は夜霧にぬれるためにある  白泉

 沼津市立沼津高校の社会科教員を39歳から勤め、55歳になっていた白泉は、職員室で毛筆で清書した自筆の『白泉句集』の巻頭に 白壁の穴より薔薇の国を覗く〉の句を置いた。旧制中学の慶應義塾普通部四年(注:昭和4年)のとき、改造社の改造文庫『子規俳話』を読み、俳句に興味を持つようになって詠んだ第1作句である。

 『渡邊白泉の百句を読む―俳句と生涯』で著者、川名大は書く。

〈 一般に、いわゆる第1作がその俳人の資質や特質を象徴すると言う。芥川龍之介は尋常小学校4年のとき、〈 落葉焚いて葉守りの神を見し夜かな 〉と詠んだ。落葉焚きに「葉守りの神」を見る神秘的な感性や想像力は、後年、「新技巧派」の名をほしいままにした秀でた資質を象徴する。また、東鷹女(のち三橋鷹女)のいわゆる第1作は、〈 蝶とべり飛べよとおもふ掌の菫  〉 「蝶とべり」という嘱目の写生的表現から「飛べよとおもふ掌の菫」への詩的想像力による飛躍には、後年の才気煥発な資質の萌芽が見られる。

  同様に「白壁の」の句も、昭和10年代に赤や青や黄など鮮烈な原色的な色に鋭敏に反応する感覚や想像力を発揮して多様な表現様式を創出した白泉の詩人的な資質の萌芽を見ることができる。〉と。

「馬酔木」に投句を始めたころを振り返り白泉は、『白泉句集』のあとがきで、〈 子規によるわたくしの俳句観は、この書物(注:秋櫻子著『俳句の本質』)と、馬酔木一門の作者たちの実作品によって大きく変動した。そして、同誌の高屋窓秋氏の作品を、わたくしは何ものにも換えがたく深く愛好した。甘美と憂愁とを打ちまじえた窓秋氏の作風は、わたくしの胸に、俳句が現代の詩として大きく生き得ることを、ひとつの信念として刻みつけたのである。〉と回想する。

  白泉は「馬酔木」に投句を始めたものの一句選続きで伸び悩む。ところが翌昭和九年に松原地蔵尊、藤田初巳らの新興俳句誌「句と評論」へも投句を始めると一気に頭角を現し、自選句発表を許される同人になった。タイトル句〈 街燈は夜霧にぬれるためにある 〉は、新同人になって初めて「句と評論」(昭和10年1月号)に発表した自選句の中の1句である。

〈 実用的、常識的な発想を「夜霧にぬれるためにある」と、純粋な美的発想へと一転させたところに斬新さがある。モダンな都市を背景にしたモダンな詩情である。〉と川名。「句と評論」の代表者の一人、湊楊一郎も、同句の出現に当時の「若い俳人たちは驚いた」と回想している。(「俳句研究」昭和44年3月号「私説・渡邊白泉」)敬称略(次号に続く)