はいかい漫遊漫歩        松谷富彦

(184)鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ   渡邊白泉 

 渡邊白泉が「句と評論」の新同人として、同誌(昭和10年1月号)に初めて発表した自選句の中の1句 街燈は夜霧にぬれるためにある は、多くの俳人、取り分け若い俳人に “目から鱗 ” の衝撃を与え、新興俳句の新鋭俳人として一躍注目されることになった。

 〈 昭和10年は「馬酔木」「天の川」「句と評論」「土上」「京大俳句」「旗艦」と全国的に主要な新興俳句雑誌が出揃い、新興俳句が無季俳句へと大きく舵を切った年である。各雑誌に台頭した才気あふれる新鋭俳人たちは新感覚・新文体などを競い合った。白泉もその一人であった。〉(『渡邊白泉の100句を読む―俳句と生涯』)と川名大は書き、次の6句を例示する。

しんしんと肺碧きまで海のたび篠原鳳作 昭9
水の秋ローランサンの壁なる絵高篤三 昭9
街燈は夜霧にぬれるためにある渡邊白泉 昭10
南国のこの早熟の青貝よ富澤赤黄男 昭10
夢青し蝶肋間にひそみゐき喜多青子 昭10
水枕ガバリと寒い海がある西東三鬼 昭10

 「句と評論」の同人になった白泉は、昭和10年1月号の「街燈」句に続いて同誌10月号に「三章」の詞書で3句寄せている。本稿タイトル句の鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ は3句中の第2句。第1句は〈 向日葵と塀を真っ赤に感じてゐる 〉第3句は〈 まつさをな空き地にともりたる電燈 〉

 〈 この3句に共通するのは、鮮烈な原色的な色彩に強く反応する特異な感覚である。…これらの句を読み解くには当時の新興俳句が目ざしていた「青のリアリズム」(新感覚のモダンな俳句)と「赤のリアリズム」(社会性のある俳句)という二つの方向と、しだいに軍国化がつよまっていく時代情況を踏まえることが必要である。〉と川名は指摘する。

 「カンナ」句について、〈 この句では「鶏たち」の目を借りて、時代情況に染まって生きる凡庸な同類たちには時代情況に潜む危険な正体が見抜けないことを、逆説的な鋭いイロニイによって表現したのではないか。〉ようするにこの1句全体が暗喩となっている、と川名。

 『渡邊白泉の句と真実――〈 戦争が廊下の奥に立つていた 〉のその後』(今泉康弘著)の白泉略年譜から引く。昭和11年、慶應義塾大学経済学部を卒業した白泉(本名威徳)は三省堂に入社、辞書編纂に従事する傍ら新興俳句の俳人として、〈 銃後といふ不思議な町を丘で見た 〉などの「銃後俳句」や〈 包帯を巻かれ巨大な兵となる 〉を含む「戦火想望俳句の大作「支那事変群作」(全116句)を発表、作句活動を続ける。

同14年、西東三鬼の斡旋で「京大俳句」2月号から同誌の会員に。翌15年2月、「京大俳句」主要会員(京阪在住)に対する治安維持法違反容疑の第1次検挙が行われ、5月、第2次検挙で白泉も京都府警に連行される。5か月の拘留後、起訴猶予となるが、執筆禁止を言い渡されて帰京。以後、白泉はひそかに作句は続けながらも俳壇とは戦後も没交渉となる。敬称略(続く)

(185)おらは此のしつぽのとれた蜥蜴づら  白泉 

 沼津市立沼津高校の社会科教諭、渡邊白泉が、戦前著名な新興俳句の俳人だったことを同僚も教え子たちも長い間知らなかった。白泉本人が俳壇と没交渉を続け、俳人としての過去を語らなかったためだ。

 『渡邊白泉の句と真実』を著した今泉康弘は、白泉を知る人々を尋ね、聞き取りを重ねたが、当時の白泉の姿が息子、勝(まさる)さんの話から浮かぶ。

〈 勝さんは1944年生まれ。高校生になるまで、父が俳句を作っているということを知らなかった。あるとき、父白泉に連れられ、同僚教員の家に遊びに行った。その人の家に筑摩の『現代日本文学全集』がズラリと並んでいた。その人は全集の中から『現代俳句集』の巻を抜き出して、「白泉はこれに載っているんだ」と勝さんに示した。こうして初めて、父が文学全集に載るような名のある俳人だということを知った。白泉は自分が文学全集に入集したことを家族にさえ誇示しなかったのである。〉

 筑摩書房から『現代日本文学全集』91が刊行されたのは、昭和32年(1957)、終戦から12年後。言い換えれば、白泉は新興俳句の代表作家でありながら、戦後の俳句史において冷遇されてきた。

 なぜか。川名大が『渡邊白泉の100句を読む』で書く。〈 山本健吉の鑑賞書『現代俳句上下』(角川書店)が出版され、この本の受容度は極めて高かった。しかし、『新興俳句の意図したものは一つとして本来の俳句ではなかった。』という頑迷な俳句観のため、白泉は収録されなかった。昭和32年、俳句表現史について炯眼の持ち主であった神田秀夫編の筑摩書房版『現代俳句集』が出版された。神田は、戦前戦後の白泉による自選句258句を「渡邊白泉集」として収録するとともに、解説として俳句表現史の視点から「現代俳句小史」を執筆し、白泉を新興俳句の有力な作家として正当に評価した。〉

   本稿のタイトル句〈 おらは此のしつぽのとれた蜥蜴づら 〉は、昭和42年、沼津市立駿河図書館( 現・沼津市立図書館 )が社会教育講座で開設していた香陵俳句会に講師として招かれた際に披露した句。白泉は自句自解の最後をこう記す。〈 作者は、この句によって、自分自身の拙い生き方を自嘲するかたわら、(自分の人生に疑問や不満を持っている)心貧しい人たち全体に訴えかけようとしているのです。悲しいけれど、せめて懸命に生きましょうと。〉

   同44年1月29日、職員室で毛筆書きの自筆句集『白泉句集』を仕上げて、帰宅途中に脳溢血の発作に襲われ、翌30日死去。55歳。敬称略