はいかい漫遊漫歩 松谷富彦
(186)歌舞伎役者と俳句(上)
台風の去って玄界灘の月初代・中村吉右衛門
〈 台風一過。というと、たいていの人は白昼の青空をイメージするのに、あえて夜の空を詠んでみせたところがニクい。おぬし、できるな。それも、普段でも波の荒いことで知られる玄界灘だ。台風が去ったとはいっても、真っ暗な海はさぞかし大荒れだろう。その空にぽっかりと上がった煌々たる月影。さながら芝居の書割りのごとくに鮮明で、しかるがゆえに壮絶にして悲愴な情景と写る。句に、嫌みはない。〉と『増殖する俳句歳時記』で、詩人・俳人の清水哲男が鑑賞した一句。
詩の仲間、八木忠栄も同歳時記で〈 (玄界灘は)明治38年(1905)には東郷平八郎率いる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を迎え撃った、知る人ぞ知る日本海海戦の激戦地でもある。海戦当時、吉右衛門は19歳。何ごともなかったかのような月に、日本海海戦の記憶を蘇らせ重ねているのかもしれない。〉と書く。
初代・中村吉右衛門は、明治19年(1886)東京浅草生まれで、屋号は播磨屋、俳号(俳名)は秀山。65歳で文化勲章を受章、3年後の昭和29年(1954)に没した。
遺した『吉右衛門句集』の「あとがき」で、俳句を本格的に学ぶきっかけは、狂言「松浦の太鼓」の主人公、松浦鎮信が俳句を嗜む殿様で、役作りのために思い立ったと記している。40代の昭和初年に高浜虚子に師事し、「ホトトギス」の同人にもなり、亡くなるまで詠句を続けた。
歌舞伎役者は、元々俳名を持ち、俳句を嗜み、、名代披露の際には俳句を書いた扇子を配る仕来たりがあると、虚子は記している。〈 虚子は(『吉右衛門句集』の)序文で、〈 吉右衛門の句は有りの儘を序した句に見えるが、それでいて、その奥に深い味が潜んでいる。といい、神仏に対して厚い信仰、家族門弟への深い愛情、世の中に対してつつましく謙虚な心持が出ている、と的確に評している。〉と俳句評論の坂口昌弘は、自著『文人たちの俳句』(本阿弥書店刊)で書く。
浅草寺右隣の浅草神社境内には、久保田万太郎らの句碑と並んで左記の吉右衛門句碑がある。
女房も同じ氏子や除夜詣吉右衛門
吉右衛門の修善寺の初句碑には、次の詠句が刻まれている。
鶯の鳴くがままなるわらび狩
この句碑が建ったとき、吉右衛門が喜びを素直に詠んだ句を二つ。
夏わらびとつて来てまた句碑に立つ
我句碑を人に問はれて梅の花
俳句と弓道を趣味とした吉右衛門の1句を最後に引く。
炉びらきに弓も引くなり句も作る(敬称略)
(187)歌舞伎役者の俳句(下)
初代・中村吉右衛門を母方の祖父に持つ9代目・松本幸四郎(隠居名:2代・松本白鸚)は、句集『仙翁花』、随筆『松本幸四郎の俳遊俳談』の著書がある俳人である。俳名は錦升。昭和17年( 1942)東京生まれ。
キホーテと五十路の旅の青しぐれ9代・幸四郎
早春のハムレットしなやかにしなやかに
上の詠句が示す通り歌舞伎役者に止まらずミュージカル、演劇さらに映画と活躍の場を広げてきた。6代目・市川染五郎時代からミュージカル「ラ・マンチャの男」の主役ドン・キホーテを務め、本場ニューヨークのブロードウェイでも英語で公演、一躍評価を高めた。「ラ・マンチャの男」の主演回数は、すでに1300回を達成している。
神の春とふとふたらりたらりらふ
上の句を上げ、坂口昌弘は自著『文人たちの俳句』の「松本幸四郎」の項で書く。
〈 森澄雄の対談集『俳句のゆたかさ』の中で澄雄は、幸四郎のこの句を好きな句といい、俳人には詠めない句という。
…「とふとふたらり」というのは、能の「翁」の言葉で、「翁」は奉納の芸として神をたたえ、寿ぐための呪文のような言葉であった。
…幸四郎にとって、俳句とは「17文字の中から人間の深い深いところが滲み出てくるもの」であり、「俳句というものは、これは神がわれわれに与えたもうた」ものだと、澄雄に語っていた。俳人も語り得なかった俳句の本質を語っていた。〉と。
自著『松本幸四郎の俳遊俳談』で幸四郎は「自分も何か言葉を使って表現したいという気持ちがずっとあって、それも俳句を作る下地になっていた」と綴る。〈 俳句に自らの心を自由に表現できるところが、定められたストーリーに従う舞台とは異なっているのかも知れない。〉と坂口。
幸せを小脇に生きる今日の春
句集『仙翁花』の句。詩人の八木忠栄は、〈 大胆に、いきなり「幸せを…」とは、なかなか詠み出せるものではあるまい。歌舞伎の大御所に、芸の上でか日常生活の上でか、幸せを感じるようなうれしい出来事があったものと思われる。「小脇」だから、それほど大きな幸福感というよりは、小さいけれどもかけがえのない幸福感である。それゆえに春を殊更ありありと感じているのだろう。…いかにも春にふさわしい句姿である。〉(『増殖する俳句歳時記』)と鑑賞。
幸不幸混ぜて降り来る春の雪(敬称略)
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