はいかい漫遊漫歩          松谷富彦

(196)地を這う視線で報道写真六十年

 畏友、85歳でフリーの現役報道写真家の樋口健二さんについて書く。

 2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災による福島第一原子力発電所の炉心溶融事故発生以来、自称“売れない写真家”は、文字通り席の温まる暇もない東奔西走の日々が続くことになった。この10年間で国内外からの要請で原発の放射線被曝の悲惨な実態を約200回に渡って講演してきた。

 大震災の津波による福島第一原発事故以前の状況を、樋口さんは自伝として書き上げた『慟哭の日本戦後史―ある報道写真家の六十年』(こぶし書房刊)に記す。

 〈 1979年3月28日にアメリカのスリーマイル島原発メルトダウン事故が発生し、その直後に私の写真集『原発』(オリジン出版センター刊)が刊行された。この本についていくつもの新聞、雑誌が書評を書いてくれたが、出版をきっかけとしての講演は4回にすぎなかった。…明治大学の学園祭では、故高木仁三郎さんと私の2人が呼ばれたが、講演会の参加者は5人ほどの学生だけだった。当時、それほど原発問題には関心をもたれなかったのだ。〉

 ところが福島第一原発の大惨事以降、樋口さんが困惑するほど次々に講演依頼が国内、国外から舞い込んできたのだ。声のかかった大学だけでも、神戸大を皮切りに早大、沖縄国際大、琉球大、北大、横浜国大、津田塾大、金沢大、東経大、花園大、専修大、一橋大、韓国の西江大、慶煕大からも呼ばれた。

 大学以外でも自治体や市民団体からの公演依頼が相次ぎ、樋口さんは原発内部の現場取材(撮影)の際の放射線被曝による再生不良性貧血の持病も明し、原発下請け労働者の放射線被曝に苦しむ実態と差別構造を生々しい映像を使ってアピールしてきた。

 2017年にはドイツ・デュセルドルフ市とイギリス・ロンドン市の環境保護団体から招かれる。自伝から引く。

〈 デュセルドルフでは、3ヶ月間におよぶ私の写真展のオープニングとして講演を行った。展示した写真は72点で、原発や原発被曝労働の写真と映像を筆頭に、「毒ガス島」「忘れられた皇軍兵士」、さらに富士山の四季や日本の古い町並みの作品も加えた。〉

「毒ガス島」について触れる。大久野島は、瀬戸内海芸予諸島の一つで広島県竹原市に属する無人島。「毒ガス島」「ウサギの島」で知られる。

 毒ガス島の呼称は、1929年(昭和4年)から1945年(同20年)まで太平洋戦で使用するための各種毒ガスが帝国陸軍によって極秘裏に製造されていたことによる戦後の異称。現在は環境省指定の国民休暇村が開設され、約千羽(匹)のうさぎが島内に野放し繁殖していることから「ウサギの島」の愛称で人気の観光島になっている。

 自伝は書く。〈 毒ガスの製造は、戦争がドロ沼化するのと軌を一にして大量生産が始まった。…やがて広島県内はもとより、岡山県、四国まで手をのばして駆り集めた臨時工、人夫、男女学徒動員、女子挺身隊、国防婦人会など、この島ではたらく労働者は約6000人にも達した。…24時間体制での強制労働と安全管理の不備は、さまざまな犠牲者を出した。労働者たちは何を製造しているのかまったく知らされていなかった。〉

 従事者のうちこれまでに毒ガス接触による肺疾患、肺ガンなどでの死亡者は1800人を超え、後遺症患者は4500人強と樋口さんは記す。(次話に続く)

 

(197)振り切るる線量計や草の花  柏原眠雨

 樋口健二さんは、長野県諏訪郡富士見村(現富士見町)の小農家の長男として生まれ、高校を卒業して、農業を継ぎ、高原野菜農家を目指したが、先行きが見通せず上京。日本鋼管でクレーン運転の作業員をしていた1961年(昭和36年)、一つの写真展が樋口さんの人生を大きく変えることになる。

「報道写真家六十年」の自伝で樋口さんは書く。

〈 職場のカメラ好きな友人から「世紀の写真展が銀座で開かれている。ロバート・キャパ展だ。絶対、見るように!」と熱烈にすすめられたのだ。当時、私はカメラにも写真にもまったく興味がなかった。けれども毎日顔を合わせるたびに「見に行ったか!」と詰め寄られ、ついに根負けした。早出勤めの帰りに会場へ出かけると、たくさんの人たちが観にきていて驚いた。…世界的に著名な報道写真家で、戦争報道の第一人者であることを初めて知った。…200枚を超す大写真展は、私を強烈に引き込んでいった。〉

〈 たった一人の写真家が、多くの人々に深い感動と啓蒙を与える。何とすばらしい人生だろうか!…私にはキャパのような勇気はないが、自分の歩んだ農民と底辺労働者を中心とした視点で、写真の道を歩もうと固く決意した。〉

 翌年3月、父親の大反対を押し切って日本鋼管を退職。その時、樋口さんは24歳。〈 写真について何の知識も持ち合わせていない。そこで、東京総合写真専門学校の門をたたいた。3年間勤めた退職金と失業保険6ヵ月分を入学金と授業料に当て、あとはアルバイトで頑張るしかないと心に誓って〉のスタートだった。

 この年の夏、1期生の先輩、桑原史成さんが「水俣病」の大作をひっさげて衝撃的デビュー。〈 私は度肝を抜かれて魂を揺さぶられ、彼に続け!と奮い立った。〉そして学校の助手をしていた1966年7月、四日市ゼンソクに苦しむ老人が産業公害に対する抗議として、「あの世に行けば髙い薬はいらない極楽だ」と走り書きの遺書を残し、首を吊った新聞報道が目に飛び込む。

 翌8月から何の後ろ盾もない、経費一切自費の報道写真家生活が始まり、四日市大気汚染公害、美浜原発(福井県)の清掃作業現場の危険で過酷な労働実態のドキュメントへと突き進み、「原発写真家・樋口」の名が世界に知られることになった。核兵器使用の脅しに怯える世界情勢の中、85歳の報道写真家に現役引退の暇はない。