はいかい漫遊漫歩 松谷富彦
(198)亀鳴きて亭主は酒にどもりけり 内田百閒
代表作に『冥途』『百鬼園随筆』『阿房列車』などがあり、飛び切りの “乗り鉄 ”でもあった作家、随筆家が没して40余年。三島由紀夫に〈 もし現代、文章というものが生きているとしたら、ほんの数人の作家にそれを見るだけだが、隋一の文章家ということになれば、内田百閒氏を挙げなければならない。百閒文学は、人に涙を流させず、猥褻感を起させず、しかも人生の最奥の真実を暗示し、一方、鬼気の表現に卓越している。〉(『日本の文学34』解説 中央公論社)と評された内田百閒(またの名、百鬼園)の俳句について書く。
『百鬼園俳句帖』(昭和9年刊)、『百鬼園俳句』(同18年刊)、没後に編まれた『定本内田百閒句集(同49年刊』がある。
詩人、俳人で江戸俳諧考証家の加藤郁乎は、自著『俳の山なみ』(平成21年刊、角川学芸出版)の「内田百閒」の項で、〈 岡山市の造酒業志保屋の一人息子として生まれ育った百閒は少年時代に家産の傾く悲しみを味わう。俳句にのめりこむのは明治40年、旧制六高に入学してからである。2年生のとき国語教師として赴任した志田義秀(素琴)に俳句また俳諧の手ほどきを受け、六高俳句会また俳諧一夜会を第百夜までつづけた。全10巻に及ぶ随筆小説を遺すかたがた句集3冊を算える俳人百閒を論じたものは思いのほかすくない。わずかに村山古郷、内藤吐天、平山三郎により漱石門で俳句を能くした異色作家として執り上げられてはいるものの、まとまった評伝ひとつとしてなく、百閒はいまだに語られざる俳人と称してよい。〉と歎ずる。
百閒の人となりをさらに『俳の山なみ』から引く。
〈 百閒の号は生地岡山市を流れる百間川という流れのなき名のみの川から採ったとみずから明らかにしているが、一説(高橋義孝ほか)に借金の音が転訛したものと謂う。百閒は原稿料印税の前借り上手であるにもかかわらず美食ほかの浪費癖甚しく、ために高利貸に常に悩まされた。世間の「大福帳」に対して「大貧帳」を書く反骨、へそ曲がりを貫き通した。〉
素琴先生の前書きのある師弟俳三昧の1句
春霜や帚に似たる庵の主
芥川龍之介祥月命日の前書を付けて
河童忌の夜風鳴りたる端居かな
ちなみに芥川と百閒は横須賀の海軍機関学校で同僚教官だった。
漱石先生納骨ノ宵 漱石山房ニテ 大正5年12月28日の前書付きで
火桶夜馬の嘶くを聞けり
〈 漱石は「中学世界」のころからの投稿少年百閒(そのころの筆名は雪隠)を愛し、(東京帝大独逸文学科入学で)上京してからは門人として山房への出入りを許し自筆の書幅を与えたりしている。大正3年1月内田栄造(本名)の為に、と前書して「春の発句よき短冊に書いてやりぬ」の1句がある。百閒もまた「漱石俳句の鑑賞」の筆を執るなどして、「肩に来て人なつかしや赤とんぼ」を漱石俳句の絶唱と讃えた。〉と郁乎。(次話に続く)
(199)木蓮や塀の外吹く俄風 百聞
前話で引いた三島由紀夫の「現代隋一の文章家」の続きを記す。
〈 百閒の文章に奥深く分け入って見れば、氏が少しも難かしい観念的な言葉遣いなどをしていないのに、大へんな気むずかしさで言葉をえらび、こう書けばこう受けるとわかっている表現をすべて捨てて、いささかの甘さも自己陶酔も許容せず、しかもこれしかないという、究極の正確さを唯ニュアンスのみで暗示している、皮肉この上ない芸術品を、一篇一篇成就していることがわかる。〉
実は前話に続く三島の長い百閒称賛文は、現役の写生派の俳人として活躍している岸本尚毅さんが自著『文豪と俳句』(集英社新書)の〈内田百閒の章〉の冒頭に引いたのを抜き書きしたものだ。岸本さんは三島の引用文に続いて左記の百閒句を置き、書き出す。
秋立つや地を這ふ水に光りあり
まだ暑い立秋の頃、庭に水を打った。這うようにつたわってゆく水に日があたっている。そう読めば何ということもない句です。ところが、いったんこの水を意思あるもののように思ってしまうとどうでしょうか。「地を這ふ」と「光あり」が意味ありげです。そんな場面が『東京日記』にあります。
〈 辺りが次第にかぶさって来るのに、お濠の水は少しも暗くならず、向う岸の石垣の根もとまで一ぱいに白光りを湛へて、水面に降って来る雨の滴を受けてゐたが、大きな雨の粒が落ち込んでも、ささくれ立ちもせず、油が油を吸ひ取る様に静まり返ってゐると思ふ内に、何だか脚元がふらふらする様な気持になった。安全地帯に起ってゐる人人が、ざわざわして、みんなお濠の方を向いてゐる。白光りのする水が大きな一つの塊りになって、少しづつ、あちこちに揺れ出した。〉
(岸本さんの説明文)昭和10年頃の日比谷交差点。…やがて「お濠から牛の胴体よりもっと大きな鰻が上がって来て、ぬるぬると電車線路を数寄屋橋の方へ伝ひ出した。」このような絵空事を、百閒は平然と、無造作に描きます。
百閒の俳句も小説や随筆と同様、〈 何気ない言葉に怖さ、不気味さが潜んでいる 〉と岸本さんは言う。本話のタイトル句〈 木蓮や塀の外吹く俄風 〉,
岸本さんは〈 自然の風が「塀の外」だけ吹くのは不自然です。木蓮の咲く春の気分の中、「塀の外」だけヘンテコな風を吹かせてみたかったのでしょう。〉と書く。そう思って読めば妖しい風の句を3句。
軒風や雛の顔は真白なる
町なかの藪に風あり春の宵
種豚が猫鳴きするや秋の風
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