コラム「はいかい漫遊漫歩」 松谷富彦
(64)芥川龍之介の眼に映った俳聖芭蕉
芥川龍之介(俳号:我鬼)は、大正十三年発表の「芭蕉雑記」の冒頭で〈 芭蕉は一巻の書も著はしたことはない。所謂芭蕉の七部集なるものも悉く門人の著はしたものである。〉と書く。指摘のとおり芭蕉には、自ら板行した句集、自ら執筆した俳論、俳書がない。「日本の古典の代表的な紀行文」と言われる「おくのほそ道(奥の細道)」ですら、芭蕉自身は公開する気がなかったという。
なぜなのか。芥川は書く。〈 これは芭蕉自身の言葉によれば、名聞を好まぬ為だったらしい。「曲翠(筆者註:蕉門の俳人菅沼曲翠)問、発句を取りあつめ、集作ると云へる、此道の執心なるべきや。翁曰、これ卑しき心より我上手なるを知られんと我を忘れたる名聞より出る事也。」…芭蕉は大事の俳諧さへ「生涯の道の草」と云ったさうである。…一千余句の俳諧は流転に任せたのではなかったであろうか?〉と。
芭蕉が死の床に就いた元禄七年十月(1694年11月)、知らせで駆け付けた門人たちの中に内藤丈草がいた。師を見守りつつ即吟が行われ、広瀬惟然が読み上げ、丈草の句〈 うづくまる薬のもとの寒さかな〉を吟声すると、重篤の芭蕉が「丈草でかされたり、いつ聞いてもさびしをり整ひたり、面白し面白し」と嗄れ声で褒めたというエピソードが、蕉門の逸話集「俳諧世説」にある。
芥川は「雑記」にこの話を引き、〈 これは芭蕉の示寂前一日に起こった出来事である。芭蕉の俳諧に執する心は死よりもなほ強かったらしい。〉とも。
芥川は、幼時回想の短編「点鬼簿」の末尾に精神病で死んだ実母、幼少時に別れた実父、夭逝の姉の眠る墓に詣でたときの思いを綴り、〈 かげろふや塚より外に住むばかり 僕は実際この時ほど、かう云ふ丈草の心もちが押し迫ってくるのを感じたことはなかった。〉と記し、筆を置く。自死一年前のことである。
元日や手を洗ひ居る夕心我鬼
凩や目刺に残る海の色同
(65)東京の下町が出自の「もんじゃ焼き」
昭和四十年代の初めごろまでの東京の下町は、子供の姿があふれていた。まだ高層マンションはなく、商店街の裏通りには長屋やせいぜい木造二階建てのアパートが建ち並んでいた。そして路地裏に必ずあった駄菓子屋。下校してきた子供たちは、カバンを家に放り出すと、小遣い銭を握り締めて、おばちゃんがいる駄菓子屋へ取って返す。「おばちゃん、もんじゃを焼いて」と。
文政二年(1819)出版の『北斎漫画』に「文字焼き屋」の絵が載っていることから、そのころ江戸にすでに「もんじゃ焼き」の祖先が存在したと思われる。それが昭和に入り、東京・下町の子供らの手近な“買い食い菓子”に姿を変えて登場したのが、薄溶きのメリケン粉に甘味を付けた「東京もんじゃ」。
高度経済成長期に入り、臨海部の再開発が下町全体に広がる中で駄菓子屋も姿を消し、もんじゃ焼きもソース味の大人風味へ。とは言え、下町ローカルの域を超えることはなかった。ところが東京湾の埋立地、月島(中央区)を本拠としていた(株)IHI(旧社名、石川島播磨重工業株式会社)が移転、そこに働く社員、職工と家族も転出、必然的に月島の商店街も変容してゆく。
地区内に多数あった駄菓子屋を引き継いだ二代目、三代目の“おばちゃんパワー”がお好み焼きに負けない味の工夫と食べ方流儀で域外の若い層や観光客を呼び込んだのが、月島仲通り商店街(通称もんじゃストリート)を中心とした平成もんじゃ焼き。箸は使わず、「はがし」と呼ぶ金属製の小型のコテ(ヘラ)で鉄板上で焼けるもんじゃをてんでに剥がし、切り取りながらわいわいがやがや食べるのが流儀。ちなみに2017年現在、月島には約80店の「もんじゃ焼き店」が犇めき、臨海地名所となっている。
もんじゃ焼きに興味のある向きは、種村季弘著『好物漫遊記』(ちくま文庫)、武田尚子著『もんじゃの社会史』(青弓社)がお勧め。
学成らずもんじゃ焼いてる梅雨の路地小沢信男
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