コラム「はいかい漫遊漫歩」 松谷富彦

(78)明治天皇の「肉食宣言」と上野精養軒

 書架を整理していたら三十数年前に購入した『江戸たべもの歳時記』(浜田義一郎著 中公文庫)が転がり出て来た。目次を開くと「天皇の肉食宣言」の見出し。「人間宣言」をしたのは昭和天皇だが、「肉食宣言」は、祖父の明治天皇。

 そのいきさつを著者は、明治五年の新聞記事〈 我ガ朝(チョウ)ニテハ中古以来肉食ヲ禁ゼラレシニ、恐レ多クモ天皇、イワレ無キ儀ニ思召シ、自今肉食ヲ遊バサルル旨、宮内ニテ御定メコレ有リタリト云。〉を引き、〈 皇室もいよいよ肉食をするようになったのだが、これは一般の肉食ブームが波及したわけでなく、必要に迫られての転換だった。〉と明かす。

 明治天皇は開明的な人柄だったが、私生活ではきわめて保守的で〈 写真が嫌い、ガス灯や電気灯は終生もちいず、蠟燭を使ったから、宮中で日常起居された所は煤けて薄黒くなっていたという。だから、バタ臭いものを喜ぶはずがない。琵琶湖でとれるヒガイという魚が大好物で、それにちなんでこの魚に鰉という宛て字ができたが、あっさりしたものがお好きだった。〉

そんな明治帝が肉食解禁を宣言したのは、西洋各国との接触が多くなり、宮中の招宴で日本食固守を続けるわけにいかなくなったからだ。ちなみにヒガイは、本来琵琶湖水系に分布するコイ科の淡水魚で大正期に入ってから水産資源として今江潟(石川県)や霞ケ浦など各地に移植された。

これも『江戸たべもの歳時記』の「精養軒とピェル・ロチ」から引かせてもらうが、天皇の肉食宣言に備えて、岩倉具視は、部下の京都仏光寺の元僧侶で勤王家の北村重威に京橋の土地を与え、西洋料理店を開くよう依頼。宣言の一年後の明治六年にレストラン「精養軒」が開業、四年後には不忍池畔に上野精養軒も店を開き、現在は本店として営業を続けている。当時、客のほとんどが政府高官と外国人だったという。

 

降る雪や明治は遠くなりにけり中村草田男

天皇の白髪にこそ夏の月宇多喜代子

(79)ざる蕎麦ともり蕎麦

 蕎麦通が出入りする蕎麦店の亭主、女将は、一家言の持主が多く、客におもねない。常連はそれがよくて通うのだが、そんな店とは知らずに飛び込んだ普通の一見客が、ささいな一言でけんもほろろの扱いを受けることがあるのもこうした蕎麦屋。吉行淳之介の随筆『私の東京物語』(文春文庫)の「蕎麦屋」から少し長いが引く。

 〈 …ある日、ある有名そば屋の入れ込み座敷に胡坐をかいて、焼海苔と板わさを肴に一人で酒を飲んでいた。

 偶然、年下の友人が少女を連れて入ってきて、傍に座った。姪だというその少女は、運ばれてきたざるそばを見て、不満気である。

 「どうして、海苔がかかってないの」「どうしてでしょう」と、友人がたずねてきた。「この店では、ざるには海苔をかけないんだ」「でも、ざるのほうがタカいですよ」「そういうことになっているのだ」

 この店では、蕎麦の実の外皮を取り除いた芯だけでつくったのが「ざる」で、外皮のまま挽いた粉を使ったのが「もり」である。外皮を取り去る手間と、蕎麦の実の分量が少なくなるだけ、「ざる」のほうが値段が高くなる。…海苔は蕎麦の香りをそこねる、といって使わないのだが…。そういうことをここで説明しては、聞き苦しいことになるだろう。

 「それじゃ、海苔のかかったそばを食うには、どうしたらいいのですか」「うーん」と、肴にしている焼海苔に眼が向いた。これを少女に渡して、こまかくして振りかけさせれば、問題は解決する。そばの香りといったって、微かなものだ。それを犠牲にして海苔の味のほうを選ぶ、という考えだってあってもいいわけだ。

 しかしべつの有名店で、「海苔をかけてくれ」と言った客が、「うちにはそんなものはありません」と店の女に叱られていた。この蕎麦屋ではどうだろうか。

 「海苔のかかったそばは、たしかにざるそばと言うがなあ…」友人はここで気が付いて、「つまり、それは、長寿庵とか…」「そうそう長寿庵とかで」(筆者註:ポピュラーな蕎麦屋の代名詞)

 一件落着したものの、「長寿庵」に申し訳ない気分が残った。〉

 ざる蕎麦ともり蕎麦の出自、由来を開陳する紙幅はないが、街のごく普通の蕎麦店では、刻み海苔がトッピングされているのが「ざる」、乗っていないのが「もり」で、客もそれを承知で注文していると言っていい。

 筆者は、蕎麦お宅の仲間と “一家言ある蕎麦店”を渡り歩いた時期があったが、いまは帆立の貝柱がたっぷり入ったかき揚蕎麦を食わせる某私鉄駅構内の立ち食い蕎麦店が「安くて」「旨い」のでちょくちょく立ち寄っている。この店、蕎麦前の酒は置かず、せいろ蕎麦は「もり」だけで「ざる」はない。

新しき蕎麦打って食はん坊の雨夏目漱石

宵寝して年越蕎麦に起さるる水原秋櫻子

ゆく年や蕎麦にかけたる海苔の艶久保田万太郎

友二忌の昼いちまいの蕎麦せいろ星野麥丘人

あぢさゐや軽くすませる昼の蕎麦石川桂郎

蕎麦畑のなだれし空の高さかな沢木欣一