自由時間 (55) 森鷗外の『うた日記』          山﨑赤秋

 前回は、陸軍軍医森林太郎の毀誉褒貶の「毀・貶」の面について書いた。(軍医として「誉・褒」にふさわしい業績があったかどうかはわからない)
 今回は、森鷗外の日露戦争従軍詩歌集である『うた日記』について書く。
 森林太郎は、日露戦争(1904~5)のとき、陸軍第二軍兵站部軍医部長として出征した。1904年(明治37)4月、広島市の宇品港を出発し、帰国したのは翌々年の1月であった。その間、折に触れて詩・歌・俳句を作る。それをまとめたものが『うた日記』である。
 出版は1907年9月。分厚い本である。森が自ら書いたとされる広告文が残っている。「こは森林太郎が明治37、8年役の間ひた土に青柳の枝折り敷きし夜の月の下、木がらしに波立つ天幕の焚火のほとりに、鉛筆して手帳の端にかいつけられし長短種種の國詩を月日をもてついで、一まきとはしつるなり。新體詩家にもあらず、俳人にもあらず、歌人にもあらずといふ氏がものせられし長詩、十七詩、三十一字詩の趣をば、これを見て知り玉へ」
 この本は、目次もなく、序文もなく、後書もない不思議な体裁の本である。構成は次のとおりである。

 ①うた日記(序詩序歌、出征中に書き留めた詩歌句)
 ②隕石(ドイツの戦争詩九篇の訳)
 ③夢がたり(戦場から離れて自由に作られた詩歌)
 ④あふさきるさ(戦場からの書信中の詩歌句)
 ⑤無名草(妻の身になって創作した詩歌)
 
 最初の「うた日記」が全体の七割を占める。新体詩が四二篇、長歌が一〇首、短歌が二〇三首そして俳句が一六〇句収められている。それぞれ作った日付と場所が記入されている(但し、序に代えておかれている詩一篇、長歌一首、短歌五首には日付・場所は記されていない)。
 明治37年3月27日に広島で作った詩・長歌・短歌から始まる。ここでは俳句結社誌らしく俳句に限ってそのいくつかを紹介する。
 俳句を最初に詠んだのは、明治37年4月21日、宇品港を出港するときである。

起重機や馬吊り上ぐる春の舟
春の海を漕ぎ出でて明す機密かな
 
 軍馬をクレーンで船に積み込んでいる様子を興味深く眺めている。起重機という言葉が当時では新しい。船が港を出ると軍事機密を伝えられた。目的地を初めて明かされたのだろうか。

鳥の巣をいたはりて木を伐らせけり
陽炎や草なき岡の小き廟

 いよいよ戦場近くにやってきた。見通しがきかないので木を伐らせたが、枝に鳥の巣があった。そっと別の木に移してやった。向こうには陽炎の立つ禿げた丘が見え、その上には小さな廟が立っている。
(5月15日、楊家屯にて)

死は易く生は蠅にぞ惱みける
 
 戦場だから当然といえば当然だが何と簡単に人は死ぬことか。一方残された兵士は、満州の凄まじい蠅に悩まされている。(7月25日、橋台鋪にて)

夏草の葉末に血しほくろみゆく
 
 草の葉先に付いた血が乾いて黒ずんでいる。死んだ兵士のものか、あるいは傷を負ったか。(7月26日、大石橋にて)

米足らで粥に切り込む南瓜かな
 
 補給が不十分で兵食が不足している。やむなく米を粥にし、さらに南瓜を刻んで加えているが、南瓜の切り身が粥を切っているように見える。(8月31日、沙河南岸高地にて)

血の海や枯野の空に日没して
 
 真っ赤な夕日が沈む。枯野が赤く染まって血の海のようだ。(10月10日、大荒地にて)

かど松の壕の口にも立てられし
松立てしひとり夜の間に討たれけり
 
 戦場の塹壕にも門松が立てられた。それを立てた兵士の一人が、夜の間に敵に撃たれてしまった。
(明治38年1月1日、十里河にて)

炭百匁風流の下士句に耽る
 
 配給の炭百匁(四百㌘)で暖を取りながら風流を解する下士官が句作に耽っている。(2月、大東山堡にて)

凱旋や元日に乘る上り滊車
 
 いざ凱旋!明治39年元日、一年九ヶ月余の従軍を終えて鐡嶺から汽車に乗り、帰国の途に就いた。