コラム「はいかい漫遊漫歩」  松谷富彦

(84)絶滅のかの狼を連れ歩く   三橋敏雄

 掲題句は、三橋敏雄の第二句集『眞神』百三十句中の一句である。本人筆の句集後記から引く。〈(句集の)題名とした「眞神(まかみ)は『大言海』に「狼ノ異名。古ヘハ、狼ノミナラズ、虎、大蛇ナドモ、神と云へり」とある、其である。併、斯る栄称に、曽て永くも堪へて来た狼の生態は、多くの滅び行くものに準じて、既に我国の山野から滅び去って久しい。今、畏みつつ親しまうとするならば、例ば、武蔵国は御嶽神社、、或は、同じく三峯神社等の祭神を相け随ふ地位に祀られて座す大口真神、即、広く火災盗難除去の効験をのみ担ふ所の英姿を、其護符上に拝する許である。〉

 「眞神」ことニホンオオカミは、1905年(明治38年)に奈良県東吉野の鷲家口で捕獲された若雄を最後に絶滅したと見られている。だから掲題句の狼は、三橋の心象のそれであり、祖先たちが神と呼び、畏怖し、崇め、ともに生きとし生きて来たものへの追悼、寂寥の句と言える。東京八王子に生れた三橋には、句集の後記にあるように御嶽神社は産土の社であり、随神の眞神は身近な心象として存在し続けた。

 敏雄は2001年に81歳で逝くが、狼を祀る武蔵国のもう一つの社、三峯神社所在の秩父を産土の地とし、今年(2018)2月20日に98歳で逝った長寿俳人、金子兜太が、狼の句を詠み続けてきたことに通底するものを感ずる。兜太は、主宰誌『海程』の巻頭「東国抄」に狼連句を載せ、後に同名の句集を上梓する。

連句から五句を引くが、『金子兜太自選自解99句』(角川学芸出版)、『語る兜太』(岩波書店)の「金子兜太95歳自選百句」、『いま兜太は』(岩波書店)の自選自解百八句」でもかならず上げるのは*印の三句。

おおかみに蛍が一つ付いていた

狼生く無時間を生きて咆哮

狼墜つ落下速度は測り知れぬ

 狼を龍神と呼びしわが祖

 おおかみが蚕飼の村を歩いていた

ここで〈おおかみに蛍が一つ付いていた〉の自句自解を引く。

〈七十代後半のあたりから、生きものの存在の基本は「土」なり、と身にしみて承知するようになって、幼少年期をそこで育った山国秩父を「産土」と思い、定めてきた。そこにはニホンオオカミがたくさんいた。明治の半ば頃に絶滅したと伝えられてはいるが、今も生きていると確信している人もいて、私も産土を思うとき、かならず狼が現れてくる。個のとき、よく見ると蛍が一つ付いていて、瞬いていた。山気澄み、大地静まるなか、狼と蛍、「いのち」の原始さながらにじつに静かに土に立つ。嵐山光三郎さんがこの句を読んで、「あんたの遺句だ」と言ったのを覚えている。〉

ちなみに「狼」は冬の季語である。(文中敬称略)

(85)絶滅寸前季語「狼」

 前話の最後に「狼」は冬の季語と書いたが、袖珍版歳時記の新版、改訂版は、コラム子の調べた限りでは、どれも「狼」は抹消されている。ほぼ絶滅季語扱いと言ってもいい。ところがどっこい、兜太先生の他にも百年以上も前に日本列島から姿を消した日本狼を詠む俳人は、いまも“絶滅”はしていないのだ。

 まずは、日本狼が山野を駆け回り、遠吠えを耳にし、実際に姿を眼にする機会もあった松尾芭蕉ら江戸期の俳人たちの狼句を拾ってみる。

狼も一夜はやどせ萩がもと松尾芭蕉

狼の浮木に乗や秋の水榎本其角

狼の子をはやしけり麻の中森川許六

狼の声そろふなり雪のくれ内藤丈

狼のまつりか狂ふ牧の駒炭 太祇

続いて絶滅すれすれの時期の詠句を拾う。

狼の糞見て寒し白根越正岡子規

狼に夜は越せざる峠かな大谷句仏

狼の人啖ひし野も若菜かな尾崎紅葉

山犬の里へ吠え寄る夜寒哉寺田寅彦

 さらに絶滅後の現代詠句から引く。先ず日本狼絶滅の地、奈良東吉野村の鷲家口に建つ「ニホンオオカミ像」傍の句碑に刻まれた句から記す。

狼は滅び木霊は存(ながら)ふる三村純也

以下、アトランダムに。

山河荒涼狼の絶えしより佐藤鬼房

沼涸れて狼渡る月夜かな村上鬼城

狼が空に来てゐる冬銀河石原八束

狼のおくる山路や月夜茸  中  勘助

狼の嗅ぐ山神の通る岨路長谷川かな女

狼や祭りて草の淋漓たる松瀬青々

滅びたる狼の色山眠る矢島渚男

狼を神とし祀り山凍る岡田日郎

狼を詠みたる人と月仰ぐ茨木和生

餓ゑてゐなければ狼ではないか櫂未知子

 最後に詩人・俳人の清水哲男さんの『増殖する俳句歳時記』搭載の一句を清水さんの鑑賞付き(抜粋)で紹介する。

狼も詠ひし人もはるかなりすずきみのる

 〈掲句は…狼を好んで「詠(うた)ひし人」のほうに思いを寄せているところが新しい。で、この「詠ひし人」とは誰だろうか。…私には十中八九「絶滅のかの狼を連れ歩く」と詠んだ三橋敏雄ではないかという気がする。絶滅した狼を連れ歩く俳人の姿は、この世にあっても颯爽としていたが、鬼籍に入ったあとではよりリアリティが増して、どこか凄みさえ感じられるようになった。〉
 同じことが死の一か月前まで全国紙の俳句選者として毎週約六千句の選句を続け、造型俳句、定住漂泊を唱え、反戦平和運動の側に居続けた金子兜太に重なる。合掌。