はいかい漫遊漫歩      松谷富彦     

(210)山に金太郎野に金次郎予は昼寝  三橋敏雄

 タイトル句は、三橋敏雄没して15年後の平成28年(2016)に俳誌「鬣(たてがみ)の会」(同人代表・林桂)が、「豈」同人の大井恒行らの協力を得て刊行した『定本 三橋敏雄全句集』(鬣の会刊)の(辞世)の前書付きの搭載最終句である。

 この句山に金太郎野に金次郎予は昼寝 が三橋の辞世句と定まる興味深いエピソードを紹介する。俳人で俳句評論家、宗田安正の著作『最後の一句―晩年の句より読み解く作家論』(本阿弥書店刊)から引く。

 〈 癌死の13日前の平成13年11月18日、小田原市で、自身も加わる同人誌「面」の早めの忘年句会が催された。三橋は掲句(註:山に金太郎野に金次郎予は昼寝 〉をしたためた賞の色紙四枚を持参、参加した。身体の状況から、これが連衆との最後の別れになることを承知していたに違いない。当日は、先師西東三鬼主宰「断崖」以来の懐かしい仲間、山本紫黄、大高弘達や高橋龍なども出席していた。三橋は、選も講評も、すべて普段と変わらずに果たして、帰って行ったという。〉

 続けて宗田は書く。〈 それにしても、《山に金太郎》は、いかにも三橋の辞世句らしい。足柄山の山姥の子、鉞かついだ坂田金太郎の怪童伝は言うに及ばず、二宮尊徳こと二宮金次郎が柴刈の帰途、柴を背負って歩きながら、寸暇を惜しんで読書する銅像は、戦前、戦中の小学校の校庭で見かけ、昭和を生きた者には忘れられない。また、この二人の出身地相模は三橋の現在の居住地。つまり、この句は、みずからが生きた昭和と居住地への挨拶であった。加えてその働き者の2人に対する《予は昼寝》は三橋の、これまた見事な俳諧であった。〉と。

 10代で戦火想望俳句の少年俳人として嘱目された三橋。昭和10年代の詠句から拾う。

射ち来る弾道見えずとも低し

砲撃てり見えざるものを木木を撃つ

戦車ゆきがりがりと地を掻き進む

夜目に燃え商館の内撃たれたり

壁の街窓立ち残りたるままに

  90年後の戦火のウクライナの情景を活写したような想望句に驚く。戦後も三橋は。無季俳句のフィールドである戦争に係わる俳句を詠み続けた。

穿き捨てし軍靴のひびき聞く寒夜

永遠に兄貴は戦死おとうとも

押し黙る海山や来む核の冬

いつせいに柱の燃ゆる都かな

戦争と畳の上の団扇かな                                                                                                                                                   (敬称略)

(211)子規は辞世の句を二度詠んだ 

 正岡子規の辞世の句について書く。子規は、明治35年1月になると肺結核に脊椎カリエスの病状が悪化、連日モルヒネを射ち続けるが激痛に苦しむ。だが、自殺を口にするまでになりながらも、3月になると前年に休止していた日録「仰臥漫録」を再び書き始める。さらに2か月後の5月に入ると、随筆「病牀六尺」を新聞「日本」に連載を始め、死の直前まで続けた。

 〈 (9月)18日、午前10時頃、妹律に唐紙を貼った画板を持たせ、仰臥のまま何か書こうとしている。痰がつまって苦しそうだ。碧梧桐が墨を含んだ筆を渡すと、いきなり中央に《 糸瓜咲て痰のつまりし佛かな 》の句を、その左右に《 痰一斗糸瓜の水も間にあはず 》《 をととひのへちまの水もとらざりき 》と、4、5分の間をおいて書き終わり、口も利かなくなった(河東碧梧桐『子規の回想』昭19)。19日、午前1時頃永眠、享年35。〉(『最後の一句―晩年の句より読み解く作家論』(宗田安正著 本阿弥書店刊)

 宗田は次の2句を上げて、書く。

春深く腐りし蜜柑好みけり(明34)

病閒や桃食ひながら李画く(明35)

〈 この頃の句は、「景象」誌連載の星野昌彦「存在の詩型」の言葉を借りれば「即日常への存問「存在(生命=宗田注)」に対する存問ということになる。そのしめくくりが絶作〈 糸瓜咲て痰のつまりし佛かな 〉。最期に至るまで常に前に向かっての生命の燃焼であり、その完結であった。〉と。

  俳句評論の坂口昌弘は著書『毎日が辞世の句』(東京四季出版刊)で絶筆句と死の1年前に「仰臥漫録」に描いた左記の句を並べて記す。

糸瓜咲て痰のつまりし佛かな

糸瓜さへ仏になるぞ後るゝな

〈 自らの命が危険な状態の時に人は俳句を思いついて筆で書くだろうか。痰がつまって苦しい時に、病人なら安静を求めるのが普通だが、子規はあえてその自らの苦しい状態を俳句にした。死の前の俳句への執念は芭蕉によく似ている。子規も芭蕉も人生・生死を達観して死んだわけではなかった。〉

 そして坂口は書く。〈 2句目は死の1年前の『仰臥漫録』に見られる句であり、糸瓜と仏という言葉が絶筆と共通していることは、死の直前に突然、糸瓜と仏を詠むことを思いついたのではなく、1年前から糸瓜と仏について計画的に考えていたことを証明している。

 1年間、深く死と仏について考えていたから、1年後の絶筆ができたのである。1句目が時間的に最期の辞世句とするならば、内容において本当の辞世は2句目であり、子規の死生観がもっとも明瞭に表れた句である。〉

〈 2句目には「草木国土悉皆成仏」の前書があり、糸瓜と仏の本質的な意味が象徴されている。〉と坂口は言い、死の3か月前の子規の言葉を記す。

〈 悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ねる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。〉と。 (敬称略)