自由時間 ㊶ 俳句問答             山崎赤秋

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正岡子規は、明治29年5月から9月まで、新聞「日本」紙上に、読者からの質問に答える形式の「俳句問答」を連載した。36のいろいろな質問に丁寧に答えている。質問は多岐にわたるが、その中からいくつかを現代語に直して紹介する。

○問 『懐の紙もらはるゝ菫かな』という句はどういう意味ですか、また値打ちはどうですか。
答 この句こそ俗俳諧の俗の極みに達したものである。句の意味は、人と一緒に郊外を歩いていると、連れの人が道端の菫を一もと二もと掘り取り、家に持って帰りたいのだが何か包む紙はありませんかと言われたので、自分の懐紙をあげた、ということであろう。それでは、謎々みたいなもので、感情に訴えることが少ないのですでに面白みの大部分を殺がれている。俗な宗匠たちは、遠回しにいうのを婉曲だとして喜ぶものが多い。婉曲というものは、議論などに用いられるもので、純粋の文学ことに俳句などにはあまり必要ではない。まして謎々のようなものは必要ではない。言葉のことはさておき、趣向(工夫)のことだけを取り上げても、菫を紙に包んで取って帰るというだけのことでは陳腐でもあり、また何の面白味もない。そうではあるが、菫を紙に包んで取って帰るということをありのままに述べればまだましである。それをそう言わずに、自分を傍観者の地位に置き、懐紙をねだられたというのは全く興ざめである。この趣向において美と感ずべきところは、菫が哀れだということと菫を愛する人の心の優しさとにある。それなのに、この句は重点をその両者に置かないで、傍観者である自分の手柄にしようとしている。こういう人は、美や文学を理解しているとは到底言えない。作者は、古人に『鼻紙の間に萎む菫かな(園女)』という名句があるのを知らないのだろうか。

○問 『人寝ねて都もさびし時鳥』という句を作りました。句になっていますか。
答 はなはだしい無理もなければ、俗気もないが、結局平々凡々たるをまぬかれない。一句の趣向が平凡であったとしても、ちょっとした言い方で、面白くなることもある。
『時鳥平安城をすぢかひに(蕪村)』といえば、平凡な趣向も活動するように思う。この句の言葉を見ると、こなれていないところが多いので何となくたるんで聞こえてならない。『都も淋し』という『淋し』の語はここでは不適当である。淋しというのは古都などを形容する語で、ここは静かというべきところであろう。『人寝ねて都静かなり時鳥』といえば一歩前進である。しかしなお、『人寝ねて』という語は面白くない。第一に、『人寝ねて』というのは理屈になっている。もしこれを、理屈的(主観)ではなく感情的(客観)にしようとするなら、『灯消えて』『店閉じて』『往来絶えて』『犬吠えて』などとすべきである。第二に、『都静かなり時鳥』といえば、夜の景であることは言わないでもわかる。夜ならば、『人寝ねて』は言わないでもわかる。いずれにしてもこの五字はいらない。(夜の景色を重複して言っても客観的なものならばよい)従って、今直して、『犬吠えて都静かなり時鳥』『犬吠ゆる都大路や時鳥』などとすれば、なお名句にはならないけれども、原作に比べれば一二歩前進するのではないか。
この二つの問答から、俳句にとって重要なものは、理屈より感情、主観より客観であること、趣向が陳腐・平凡であってはならないこと、適切な言葉を選び意味の重複を避けること、ということを学ぶことができる。
この年、子規は29歳。すでに確かな鑑賞眼を持っていたことが分かる。