自由時間 (45) すみだ北斎美術館      山﨑赤秋

 総武線で千葉方面に向かい隅田川を渡ると、左手に国技館、江戸東京博物館が見え両国駅に到着する。東口から出て線路沿いに歩くこと10分、雑然とした街並みの中に忽然とアルミパネルで覆われた箱のような建物が出現する。昨年11月22日に開館した「すみだ北斎美術館」である。
 設計は妹島和世(60)。1991年竣工の「再春館製薬女子寮」(熊本)で注目を浴び、「金沢二十一世紀美術館」「ルーブル美術館ランス別館」「ローザンヌ連邦工科大学ラーニングセンター(ロレックス・ラーニング・センター)」などで我が国を代表する建築家の一人となった。何よりも明るい建物を作ることがその特徴である。

 華々しい受賞歴を誇るが、中でも特筆すべきは2010年にプリツカー賞を受賞したことである。プリツカー賞は建築界のノーベル賞といわれるもので、世界の名立たる建築家が受賞している。日本人では、丹下健三、槇文彦、安藤忠雄に次ぐ受賞で、その後の受賞者には伊東豊雄、坂茂がいる。女性ではザハ・ハディド(新国立競技場当初案の設計者)に次いで二人目である。

 さて、北斎。宝暦十年(1760)に貧農の子として、この美術館の近くで生まれた。時の将軍は九代徳川家重。少年時代は、貸本屋の丁稚や木版彫刻師の従弟として奉公したが、絵に興味を覚え、絵師を志す。
 十八歳のとき、浮世絵師・勝川春章に入門し、名所絵、役者絵や黄表紙の挿絵などを多く手がけた。

 五十四歳のとき、絵手本『北斎漫画』の初編を発行、順次続編が発行され、死後発行されたものを含め全十五編になる。これはヨーロッパに渡り、印象派の画家たちに多大な影響を与えた。

 七十一歳のとき、錦絵『富嶽三十六景』の初版発行、二年後完結(人気が高かったため十枚追加され実際は四十六景)。

 七十五歳のとき、絵本『富嶽百景』の初編発行(全三編、実際は百二景)。その跋文が凄い。「己、六才より物の形状を写の癖ありて、半百の此より数々画図を顕すといえども、七十年前画く所は実に取るに足るものなし。七十三才にして稍禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり。故に八十六才にしては益々進み、九十才にして猶其奥意を極め、一百歳にして正に神妙ならんか。百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん。願わくは長寿 の君子、予言の妄ならざるを見たまふべし」

 八十三歳のとき、豪農商・高井鴻山を頼って信濃・小布施に行く。その後六年間で、四度訪れている。小布施では、祭屋台の天井絵『怒涛図(男浪・女浪)』『鳳凰図』『龍図』、岩松院本堂の天井絵 『八方睨み鳳凰図』を描き、今に残している。

 嘉永二年四月十八日(1849年5月10日) 江戸・浅草聖天町の遍照院境内の仮宅で没する。享年九十。

 臨終のときの言葉、「天我をして十年の命を長らわしめば……天我をして五年の命を保たしめば真正の画工となるを得べし」

 辞世の句、「人魂で行く気散じや夏野原」

 絶筆とされているのは、死の三ヵ月前に描かれた『富士越龍図』である。白い富士を巻くようにして天に上る黒雲と龍を描いたものである。すみだ北斎美術館に展示されているが、線描に全く迷いがなく、とても数え年九十歳の人の筆によるものとは思えない。凄いとしか言いようがない。

 来る5月27日から8月13日までイギ リスはロンドンの大英博物館で、「北斎~大 波の向こうに~」という展覧会が開催される。 晩年三十年の画業に焦点を当てたもので、 日・米・欧から集めた作品が展示されるとい う。観てみたいものだ。