自由時間 (61) マウトハウゼン強制収容所(中欧紀行②)           山﨑赤秋

 

 ウィーンから西へ汽車で1時間半のところに、オーストリア第三の都市リンツ(人口20万人)がある。リンツでローカル線に乗り換えて、東へ20分戻ると、マウトハウゼン駅に着く。田舎の小さな駅だ。駅からドナウ川沿いに4㌔ほど遡った丘の上に、マウトハウゼン記念館がある。ナチスのマウトハウゼン強制収容所の跡である。
 駅からバスで記念館の近くまで行く予定であったが、その日は日曜日で、バスは朝晩しか運行しないことがバス停の時刻表を見てわかった。これは困った。どうする。タクシーのあるような駅ではない。止む無く歩くことにした。1時間くらいで着くだろう。あいにくの雨模様で降ったりやんだりしている。雨具はなく寒い。頑張るしかない。後から知ったことだが、囚人たちも、駅から収容所まで歩かされたそうだ。同じ道を同じように歩いたことになる、ただの旅人として。
 街を抜け住宅地に入ると坂がかりになる。時々迷いながら坂を上りきると、視界が開け、目の前に灰色の煉瓦積みの要塞のような大きな建物が現れる。マウトハウゼン記念館である。
 

 1938年、ナチス・ドイツはオーストリアを併合した。そして、その領内に約50の強制収容所を作った。その中で一番大きかったのは、マウトハウゼンである。この地には花崗岩の採石場があり、その労働力を供給するために隣接地に強制収容所が設けられ、やがては戦闘機製造工場も併設された。過酷な労働に囚人を使い、劣悪な環境で多くが死んだ。囚人は、ソ連の戦争捕虜、占領下の各国の政治犯や反ナチ分子、そしてユダヤ人であった。1945年までに約20万人が収容され、少なくとも6万人が死んだ。米軍により解放されたのは、1945年5月のことであった。
 ナチスは、その占領地に多くの強制収容所を作った。その数は2万ヶ所を超える。その性格をみると、大きく、強制労働収容所、戦争捕虜収容所、絶滅収容所に分類することができる。
 絶滅収容所とは、囚人を殺害することを目的とする収容所で、死の収容所とも殺人センターともよばれる。ヒトラーが欧州のユダヤ人を絶滅させることを決意した1941年以降に建設が始まった。次の6収容所が絶滅収容所である。
 ①アウシュヴィッツ=ビルケナウ(死亡者数110万人、以下同)、②トレブリンカ(70万人)、③ベウジェツ(44万人)、④ソボビル(17万人)、⑤ヘウムノ(15万人)、⑥マイネダク(8万人)で、いずれも現ポーランド領内に設けられたものである。死者の8割がユダヤ人であった。
 マウトハウゼンは強制労働収容所に分類されるが、収容された囚人を奴隷のように扱い、苛酷な重労働を課して死に至らしめた収容所であった。絶滅収容所を除くナチスの強制収容所の中では、死亡率の最も高い収容所の1つであった。
 

 ビジターセンターに行くと、案内書をくれ、入場料は無料で自由に歩いていいという。3ユーロでオーディオガイドを借りることもできる。関連書籍を販売しており、カフェもある。サンドイッチを食べてから見学することにした。
 ビジターセンターがあるのは、昔はナチスの親衛隊の兵舎があった跡地である。収容所を囲むように、かつては20棟近くあった兵舎は1つも残っていない。石造りの司令部の建物だけが残っている。
 兵舎の跡地は記念公園になっており、犠牲者の出身国が、競うように大きな慰霊碑を建立している。その数は20ヶ国になる。その他に、ユダヤ人、ロマの慰霊碑やユダヤ人の青少年のための慰霊碑もある。
 記念公園の先は、広大な窪地になっている。採石場の跡地だ。窪地から公園に至る階段がある。186段ある。そこを上って囚人たちは石運びをさせられた。担いでいる石は50㌕以上あった。石の重みに押しつぶされたり、足を踏み外して転げ落ちたりして、多くが死んだ。「死の階段」と名付けられている。途中、「パラシュートの崖」と呼ばれているところがある。囚人をここから突き落として処刑したところだ。
 記念公園に面して、左右に監視室を持つ堅牢な石造りの門がある。収容所への入り口である。入ると右に管理棟が4棟並んで建っている。洗濯場、調理場、留置場、診療所である。診察所と留置場の地下には、ガス室と死体焼却炉がある。3,455名の犠牲者の名前がびっしりと刻まれている部屋があった。
 管理棟の反対側には、点呼が行われた広場を挟んで、収容棟エリアがある。当時は25棟あったが、今は3棟だけが残っている。各棟の収容人員は300名であったが、ひどい時には2,000名が収容されたこともある。
 収容棟の跡地には草が生えているばかりであったが、1区画は墓地になっていた。真中に植えられていたレンギョウの花が満開でまぶしかった。
 1944年の夏になると、増大する囚人を収容しきれず、少し離れたところに、テント張りの収容棟がつくられ、ハンガリーから来た何千ものユダヤ人が収容されたそうだ。
 一通り見て回るのに2時間。重い気持ちと、重い足を引きずり、ビジターセンターに戻る。さすがに駅まで歩く気になれず、タクシーを呼んでもらう。運転手のおばさんは英語ができず、話が通じなかった。残念。窓の外には、濁ったドナウ川が滔々と流れていた。