自由時間 (69)  椿の海の記            山﨑赤秋

   光陰矢の如し。石牟礼道子を見送ったのはついこの間のことのように思っていたが、もう一周忌を迎えた。その2月10日、水俣市では「水俣病を語り継ぐ会」主催の朗読会があり、福岡市では関係者による講演会が行われた。作家の池澤夏樹もゲストとして壇上に上がって挨拶した。
 池澤夏樹は、石牟礼道子のことを高く評価している。彼が2007年から2011年にかけて編集・刊行した『池澤夏樹= 個人編集 世界文学全集( 全三十巻)』に、日本代表として選出したのは石牟礼道子であり、『苦海浄土』であった。ちょっとした驚きだ。池澤は言う、「この人が戦後日本文学でいちばん大事な作家、とぼくは信じる」と。そして、「全集に石牟礼道子さんの『苦海浄土』を入れたことを誇りに思います。経済にあおられて社会が壊してしまったものを丁寧に書いておられる」と述べている。

 そもそも、この全集はかつてない斬新なものであった。常識的な世界文学全集であれば、ホメロスから始めるところであるが、名作古典はあえて選ばず、もっぱら20世紀後半の作品を厳選して並べた。その斬新さが評価されて、毎日出版文化賞(企画部門)と朝日賞をダブル受賞している。
 全三十巻のライン・アップを見ると、読んだことのあるのは、四、五冊しかないことに驚き、わが読書の範囲が名作古典に傾いていることに気づかされる。幸い時間はある。図書館に通って、第一巻『オン・ザ・ロード』(ジャック・ケルアック)から順に読破していこう。そして、人間らしさを取り戻そうと思う。
 石牟礼道子といえば『苦海浄土』であるが、実はそのほかにもすぐれた作品をたくさん残している。『苦海浄土』が大きすぎて、みなその陰に隠れてしまっているが、愛すべき珠玉のような小説や詩がある。新作能も書いている。
 池澤は、世界文学全集が好評だったので、2014年からは、『池澤夏樹= 個人編集 日本文学全集(全三十巻)』の編集・刊行も行っているが、『源氏物語』の下巻を残して、すでにすべてが出版されている。(日本文学全集の場合は、古典が脇にどけられることはなく、最初に刊行されたのは、池澤自身の訳による『古事記』である。この全集の売りの一つは、現在第一線で活躍する作家が古典の新訳に挑んでいることである。例えば、『源氏物語』は角田光代が訳しているごとく)
 池澤は、その日本文学全集の一冊を石牟礼道子に割り当て、代表作『苦海浄土』を背後から照らしている。作品群に光を当ててくれている。
 収録されているのは、4歳の作者を主人公にした自伝小説『椿の海の記』。少女が動物や山の精霊、風のささやきや草の声と戯れる『水はみどろの宮』。西南の役に巻き込まれた庶民の生の声が響く『西南役伝説・抄』。詩十篇。代用教員時代にひきとった戦災孤児のことを描いた『タデ子の記』。新作能『不知火』。
 この中で、彼女の最高傑作とされるのは、『椿の海の記』である。4歳の少女が触れる、山のこと、海のこと、川のこと、人の暮らしのことを、次から次へと、目につくまま、思いつくまま、細密画のように丁寧に綴った小説である。「父の背中におんぶされていて広がる世界は、山川や海や、天地のことにぞくし、母の背中におんぶされていてつながる世界は、人界にぞくしていた」そして、「まだ人界に交わらぬ世界の方に、より多く私は棲んでいた」というような少女である。
 家が破産して住むことになった「とんとん村」にいた火葬場の隠亡や癩者との交流、日本窒素肥料株式会社が来て港から道路ができ、道路沿いに、女郎屋、髪結い、酒屋、お湯屋、飲み屋などができていく様子、天草から売られてきたばかりの16歳の女郎が中学5年生に刺殺されるという事件があったこと、
盲目で半狂乱の祖母が、天皇陛下の行幸があるというので島に隔離されそうになったこと、
 年中行事では七草粥が重んじられていて親子で七草摘みをし、「歳時記とは暦の上のことではなくて、家々の暮らしの中身が、大自然の摂理とともにあることをいう」と実感したこと、
 大きく迂回している渚に沿って狐の嫁入りの提灯行列があったという話を聞き、白狐になって、それから人間の女性というものに化身してみたくなったこと、
 その渚に沿って近隣住民総出の雨乞いの行列があったこと、
 寒いときこそ川海苔が最も美味なので雪の河原に採りに行ったこと、
 花魁の真似をして髪を結い、化粧をし、着物を着、町の通りを練り歩いたこと、
 出水があって流されたが土手に引っかかって助かったこと、
 弟が椿の木の股にはまり込んで助けるのに難儀したこと、
 サーカスごっこに夢中になりブランコ乗りはなぜかうまくできたこと、………などのエピソードが、どんどん語られるのであるが、特にストーリーがあるわけではなく、文章の一つ一つが独特な表現で彩られていて、それらの言の葉を咀嚼するうちに不思議な世界に引き入れられるような心地のするところが、この作品の魅力なのかもしれない。「春の花々があらかた散り敷いてしまうと、大地の深い匂いがむせてくる。」これが始まりの文章。

 手に入れやすい文庫本で、もう一つ彼女の作品を。『食べごしらえ おままごと』。食べ物の本であるが、そう簡単ではない。「ときどき東京に出ることがあって、そのたびに衝撃を受けるのは、野菜のおいしくなさである」と「あとがきにかえて」で書いているが、そういう視点から書いた本である。