曾良を尋ねて (115)           乾佐知子
─ 芭蕉晩年の動向 Ⅱ「不易流行」 ─

  元禄7年(1694)5月13日、付き添って来た曾良と別れた芭蕉と次郎兵衛は、大雨で大井川の渡しで3日間の川止めにあう。
(前略)はこね雨難儀、……… 与風(ふと)持病も出で申すべき哉などと存ぜられ候。………寿貞も定めて移り居り申すべく候。(以下略)
   と曾良への書簡にも寿貞への心遣いがみられる。
 17日に駿河の国に入り〈駿河路や花橘も茶の匂ひ〉〈さみだれの空吹きおとせ大井川〉等の軽快な句を詠んでいる。旅は順調に進み島田や名古屋を経て26日には伊勢長島の大智院に至った。
 然し、長年地元の長島町に住まわれて曾良の研究家として研鑽を積んでこられた岡本耕治氏の「曾良長島日記」によれば、あいにくこの日は良成住職は留守であった為、久兵衛こと吉田七左衛門宅を訪れて夕食のお粥を馳走になったという。
芭蕉の書簡によれば、
   長島大智院留守故久兵へ殿へ音づれ、夕飯粥を所望致、暮がた大智院被帰候間一宿致候。藤田殿ハ病気のよし承候故案内不申。尤さびかへりたる小地、誰出合ものも無御座を幸のよろこびに而旅立候て、久居に一宿ニていがへ廿八ニ上着(以下略)
 〝上着〟とは伊賀上野に着いたということである。藤田殿とは長島藩の家老で、前回世話になったが今回は病気とのことなので知らせなかったという。恐らく夜に住職一人だけのもてなしだったと思われ、長島訪問をすすめた曾良としては各地で歓待を受けている師芭蕉に対し申し訳なかったと気に病んだことであろう。著者の岡本氏も「多分何らかの連絡ミスがあったと思われるが、芭蕉最後の当地訪問であった為に充分なもてなしをしてあげたかったと残念でならない」と述べておられる。
 芭蕉が故郷の伊賀上野に着いたのは28日で、ここに20日ちかくいた。その間土芳とは特に親しく語った。土芳は9歳の時から芭蕉に学んだ地元の俳人である。
 土芳が芭蕉没後に書いた『三冊子』(さんぞうし)は、この在郷中の教示が纏められたものである。
 岡田喜秋氏の著書『芭蕉の旅路』によれば、この書名は「白、赤、黒」の三色の冊子という分け方で「赤冊子」には芭蕉がこの時語った「不易流行」という言葉が書かれているのは持筆していい。
 師の風雅に、万代不易あり、一時の変化あり、この二つに究まり、其の本は一つ也。その一つといふは風雅の誠なり。不易を知らざれば実に知れるにあらず。不易といふは、新古によらず、変化流行にもかかはらず、誠によく立ちたる姿なり。
 岡田氏曰く「不易流行」は俳句のありかたについての最終結論である。「流行」という言葉は今も使われているように、生きている時代の風潮に順応することだが「不易」なものが貫いていなければならない、という見解である。