自由時間 (87) 戦争と感染症 山﨑赤秋
8月は戦争が近くなる月だ。広島・長崎の原爆記念日、終戦記念日。今年はさらに新型コロナウイルスの感染拡大が加わり、気分が重苦しい。その上、熱中症の死亡者数が新型コロナウイルスによる死亡者数を上回るという猛暑に襲われて、泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目だ。
そんな訳で、あまり筆も進まないが、今回は、第二次世界大戦中の感染症にまつわる喜劇(?)と悲劇を1つずつ。
まず1つ目の舞台はローマ。市内を流れるテベレ川の中州(ティベリーナ島)にファーテベーネフラテッリ(「善行を、兄弟よ」の意)病院(以下F病院)というカトリック系の病院がある。創設は16世紀にさかのぼる。東側の対岸にはユダヤ教のシナゴーグがあり、それを中心にしてユダヤ人居住区が広がる。
ローマは、1943年9月から9ヶ月間、ナチスに占領された。占領してまず始めたのはユダヤ人狩りである。多くのユダヤ人が広場に集められ、強制収容所に送られたが、その監視の目をかいくぐって、何人かが逃亡し、F病院に向かった。
F病院には、ユダヤ人医師が出自を隠し、名前を変えて数人働いており、占領前から病院内にユダヤ人の親戚や友人を匿っているという噂が、ユダヤ人コミュニティでは広まっていた。病院に行けば何とかなる。
F病院は、逃げてきたユダヤ人をすべて受け入れた。50人程度だったらしい。受け入れるにあたって、医師たちは一計をめぐらした。「K症候群」という架空の感染症をでっちあげ、全員を隔離病棟に収容したのである。K症候群は感染力の強い神経疾患で、感染すると頭痛や吐き気、けいれんや麻痺を引き起こし、進行が早く、重篤になると意識を失い、果ては死に至ることもある、という病気の特徴や症状について医師たちで偽の知識を共有した。ナチスが来た時にぼろを出さないようにするためである。さらに、念には念を入れて、隔離病棟に匿われているユダヤ人たちには、ナチスが近づいてきたら、咳き込んだり、痛みにもだえ苦しんだりするように演技指導をした。
案の定、ナチスの親衛隊がF病院を調べにやってきた。病院の調査なのに、どういう訳か医療関係者の姿は見えなかった。病院内を案内して回り、隔離病棟に近付くと、K症候群という感染症のことを恐ろしい病だと説明した。病室からは激しい咳やうめき声が聞こえる。見事な演技だ。兵士たちは部屋に入ることもなく、そそくさと逃げるように離れていった。
その後、K症候群の患者たちは、ローマ市内の教会や修道院の協力を得て、占領が終わるまで匿われ、無事に生き延びることができた。めでたし、めでたし。
さて、次の舞台は日本最南端の有人島・波照間島。沖縄本島より台湾の方が近い。
1945年3月26日、米軍が慶良間諸島に上陸した。それに先立つ2ヶ月くらい前のこと、波照間島の青年学校に、知事発行の辞令を持って、山下虎雄(のちに偽名だったことがわかる。本名は酒井清)という教師が赴任してきた。25歳の彼は、明るく面白い好青年で、生徒たちの人気者になった。
米軍上陸の報せがあってすぐのことである。山下先生が島民を集めた。豹変していて様子がおかしい。手には軍刀を握り、米軍上陸の恐れがあるため、軍命により全島民の西表島への強制疎開を命ずる、と言った。彼は軍人だった。陸軍中野学校出身の離島残置工作員だったのである。住民の動向を監視し、ゲリラ活動を行う協力者を秘密裏に掘り起こすことが任務だった。
島民からは反対の声が上がった。米軍が波照間島に上陸する可能性はもうないだろう、西表島はマラリアの大流行地であり感染する恐れが非常に強い。
しかし、山下は聞く耳を持たなかった。軍刀を抜き、反対するものは斬る、とまで言った。島民は従わざるを得なかった。 疎開の準備をしていると、今度は、家畜を残していくと利敵行為になるので、島の家畜をすべて屠殺するようにとの命令が出された。島には、牛、馬、豚、山羊あわせて3000頭、そして鶏5000羽がいた。これだけの数の家畜を殺すことは容易ではない。働き盛りの男性は徴兵されていて、島には老人、女性、子供しか残っていない。とても無理だ。すると、どこからか兵隊らしきものがやってきて、どんどん屠殺していった。1ヶ月かかった。蝿が大量に発生し、島は腐臭に包まれた。肉はいつの間にか島外に運ばれていった。
全島民約1500名は、船を何度も往復させて、西表島へ疎開した。5月になると、蚊(ハマダラカ)が飛び始めた。マラリアにかかる人が出始める。栄養不足で体力のない島民はひとたまりもなかった。どんどん増えていった。薬もなかった。(山下自身は、軍から支給された薬を隠し持っていた)
沖縄戦が終了しても、どういう訳か山下は帰島を許さなかったので、島民の有志がひそかに石垣島にいた八重山守備軍の旅団長に直訴し、帰島許可を得る。
全島民が帰島してからも、マラリアはおさまらなかった。ほとんど全島民が罹患した。戦地より復員した者も感染した。(この間、山下はひそかに離島していた)マラリアは冬になって沈静化するが、死者は翌年にも出た。マラリアによる死者数は488人に上った。島民の3分の1である。(いわゆる戦死者はゼロなのに) 一体、何のための疎開だったのか。
- 2024年10月●通巻543号
- 2024年9月●通巻542号
- 2024年8月●通巻541号
- 2024年7月●通巻540号
- 2024年6月●通巻539号
- 2024年5月●通巻538号
- 2024年4月●通巻537号
- 2024年3月●通巻536号
- 2024年2月●通巻535号
- 2024年1月●通巻534号
- 2023年12月●通巻533号
- 2023年11月●通巻532号
- 2023年10月●通巻531号
- 2023年9月●通巻530号
- 2023年8月●通巻529号
- 2023年7月●通巻528号
- 2023年6月●通巻527号
- 2023年5月●通巻526号
- 2023年4月●通巻525号
- 2023年3月●通巻524号
- 2023年2月●通巻523号
- 2023年1月●通巻522号
- 2022年12月●通巻521号
- 2022年11月●通巻520号