韓の俳諧 (11)                           文学博士 本郷民男
─ 韓の居住者による開始 ─

 これまで、韓半島の居住者による俳句は、『ホトトギス』の地方俳句界を手掛かりに明治32年(1899)頃から始まるとされて来ましたが、もっと早い事例がたくさん残っています。京都の上田聴秋が創刊した『俳諧鴨東新誌』五号(明治21年6月20日)には、次のような投句が掲載されています。
東雲ハ雲に押されて時鳥朝鮮 塘雨
朧夜もゆかし波音水の音朝鮮 山翠
月白く青田の上に残りけり朝鮮 塘雨
寝處から呼て起けり初松魚朝鮮 塘雨
卯月に向て小暗き燈かな朝鮮 五兮
舟洗ふ歌や気味よき五月晴朝鮮 五兮
悔て居た雨の夜を時鳥朝鮮 山翠
次の七号(21年8月20日)にも、
鳥丈を我ものにして夏の雨朝鮮 山翠
暮の雨月の雫となりにけり朝鮮 塘雨
名月やつまんで捨る椽の塵朝鮮 柏軒
打止めハ夜の更けて有る碪かな朝鮮 五兮
聲寂し野分の跡の夕烏朝鮮 五兮
持て居て打せる釘や初蚊帳朝鮮 竿
蝶二つ来て秋らしくなかり鳧朝鮮 塘雨
這つた跡月に光るや蝸牛朝鮮 竿
松竹をはなれて吹や秋の風朝鮮 山翠
鹿鳴くやどちらも細き分れ道朝鮮 山翠
初から更た音なり小夜碪朝鮮 塘雨
 まず表記で申し上げると、「きぬた」を砧と書くことが多いですが、碪の表記もままあります。また「鳧」は鳥ですが、同じ音の詠嘆の助動詞「けり」に充てました。
 明治時代の代表的な旧派の俳句雑誌というと、明治13年に創刊の『俳諧明倫雑誌』と、明治21年に創刊の『俳諧鴨東新誌』です。『俳諧明倫雑誌』は俳句に関する文章と、各地の宗匠から送られてきた一門の俳句を掲載し、一般からの投句がほとんどないです。朝鮮なにがしとして投句された俳句は、見当たりません。
 対照的に『俳諧鴨東新誌』は大半がさまざまの投句で埋め尽くされ、各冊に千句ほど掲載されています。目をしょぼしょぼさせながら細かい活字を追うと、朝鮮という句が多数見つかります。『俳諧鴨東新誌』を所蔵している所は少なく、閲覧できた最も古い号が五、七でした。
 明治9年(1876)の条約で釜山港が開港し、13年には元山(ウォンサン)港、16年には仁川(インチョン)港も開港し、日本人居留地が作られました。また元山からは神戸とウラジオストクを結ぶ定期航路が開かれるなど、船便で投句する環境ができていました。
 『俳諧鴨東新誌』は、その名のように鴨川の東、京都祇園の梅黄社が発行していました。
 居留地の住民は西日本出の人が多かったので、親しみがあったと思います。主宰の上田聴秋(1852~1932)は芹舎の門下で、二条家から花の本十一世の称号を受けました。今では忘れられたような俳人です。