韓の俳諧 (17)                           文学博士 本郷民男
─ 刺客に狙われたか ─

 韓の俳人が投句した、上田聴秋の『俳諧鴨東新誌』(明治21年創刊)を取り上げて来ました。この雑誌に言及した人は少なく、市川一男の『近代俳句のあけぼの』(第1部211頁以下)くらいでしょう。市川は『俳諧鴨東新誌』は内容が貧弱で、懸賞俳句や聴秋の自己宣伝などを載せた粗末な冊子であると断じました。市川は、三森幹雄が『俳諧矯風雑誌』を創刊し、俳壇の体質を矯正しようとしたと論じています。
 『俳諧矯風雑誌』は明治22年の創刊で、景品を与えるのは江戸時代ならお手入れだとか、聴秋が名乗った花の本宗匠などという称号は、何の権威もないといった三森幹雄の批判が載りました。選挙になると、刺客候補が立てられることがあります。東京で『明倫雑誌』を発行していた大御所の三森幹雄が、京都の新興宗匠の上田聴秋と『俳諧鴨東新誌』を討ち果たすために、『俳諧矯風雑誌』という刺客を差し向けたような市川の論調です。
 『俳諧矯風雑誌』14号を見ると、三森幹雄の「発句に品種ある説」など、いくつかの論説や会員名簿が載っています。武田誠止「奉額懸額の考」は、俳額の名目で句を募集するのは、景品を争う賭博であり、俳敵俳賊と言うべき忌まわしいことだと主張しました。他には、作風論や俳諧は文学に非ずといった論説が載っています。会員には通常会員、特別賛成員、名誉賛成員などの別があり、名誉賛成員には、当時の代表的な宗匠が並んでいます。発起人には、三森幹雄、鈴木月彦、近藤金羅などの名が見えます。同17号には、会説として「矯風の主旨」が載り、宗匠と自称して門人を集める者や、点取家は魔界に沈没しているとして、矯風の必要性を説いています。
 村山古郷は、『俳諧矯風雑誌』を冷たく論評しました(『明治俳壇史』78頁以下)。発起人に点取俗調の本尊である近藤金羅が名を連ねるなど、お付き合い程度に加わって、内心では苦々しく思う宗匠もいたであろう。結局は三森幹雄の一人相撲で3年後に、はかなく廃刊された。しかし、旧派の宗匠の中にも、俳諧の革新という覇気を持った者がいたことに注目すべきであるとしました。
 市川一男は、『俳諧鴨東新誌』を三森幹雄の『明倫雑誌』や『俳諧矯風雑誌』に比べて貧弱な雑誌と評しましたが、頁数などから見て、むしろ逆と思います。『俳諧鴨東新誌』は刺客などものともせずに発展し、返り討ちする必要もなく、刺客が自滅しました。
 青木亮人は、『俳諧矯風雑誌』にも新時代の俳論を展開した人物がいたことを指摘しました(「観念のありかー明治20年代における俳諧矯風運動ー」)。まだ東大の学生であった石川鶯州で、当時としては先端の文学を学び、旧派の宗匠とは全く違う語彙を駆使し、俳諧に文学を持ち込んだと。
 『俳諧鴨東新誌』に投句していた韓の俳人は知らぬが仏で、自分達の世界に遊んでいたと思われます。