韓の俳諧 (19)                           文学博士 本郷民男
─ 俳句相撲の軍配 ─

 再び、『俳諧鴨東新誌』126号(明治29年4月)の俳句相撲を見ていきます。一般の取り組みは各地の宗匠が裁き、勝者に軍配、簡単な評がつきます。けれども、幕内は主宰の上田聴秋(うえだちょうしゅう)が裁いて、評も詳細です。
  闘句 配団者 蕉陰居其聲宗匠
み吉野の世を思ひけり花七日釧路 澄月
†静けさや花の上には花の影朝鮮 春湖
  東西甲乙見定め難し
争ふた雲ここにあり花の山釧路 子楽
†竹各々にもあり花の一と住居 春湖
  東可なり西その情奥ゆかしくて妙
†散る花や握り摘めたる筆の軸信濃 漣
花の雲夕べを松に遊びけり朝鮮 春湖
  東趣向巧にして無難西句作に一考あれ
†黄昏の風まだ寒し花の山朝鮮 春湖
黄昏も知らずに花の盛かな横浜 如柳
  東可なり西また可ならんか
†夢のあと今日は踏みけり花の旅春湖
ああ惜しく心置なく花に雨能登 不能丸
  東無難にしてよし西妙ならず

   春湖は四勝一敗で、その次には。
   花本聴秋宗匠判(是より幕内)
松の根にそこ迄深し花曇 朝鮮 春湖
松迄も染るや花の嵐山 美濃 木峯
 東は八田知紀(は ったとものり)吉野の歌の趣を写したるは一手柄なり。西は一読快活十七音によく嵐峡の春色を写得たるは賛賞するあまり三読すれば春色に非ずして秋色なるを見出して吉野に杖を引く。
 木峯の句は桜でなく紅葉の嵐山であるのに対し、春湖の句は八田知紀の吉野の歌を彷彿させるとして、春湖の勝としました。
 ところが正岡子規は明治31年の「四たび歌読みに与うる書」で、八田知紀の「吉野山霞の奥は知らねども見ゆる限りは桜なりけり」を酷評しました。八田知紀(1799~1873)は、香川景樹に学んだ桂園派の歌人で、1872年には歌道御用掛に就任しました。香川景樹は古今調で、八田知紀は、「御歌所長といえば、田舎者が天下第一の歌よみと考える」立場にいて、ともに子規が歌の革新の標的とした相手です。
 そういった八田知紀の代表的な作品である吉野山の歌について、聴秋は子規と正反対の考えであったし、春湖は聴秋の軍配に大満足であったでしょう。
 明治30年くらい迄の歌壇は、依然として桂園派が主流であったと言われます。韓の俳人は、桂園派の歌のような発句を詠もうとしたであろうし、日本国内の俳人も同様であったと思われます。