韓の俳諧 (20)                           文学博士 本郷民男
─ 俳句結社の始まり(上) ─

 韓半島における俳句結社は、『ホトトギス』の地方俳句界の記述から、明治32年の仁川(インチョン)が最初とされて来ました。しかし、韓国外国語大学校の小澤康則教授が、『韓城新報』の記録から明治29年(1896)のソウルに、「正風會」があったという事実を発見されました(「『韓城新報』に見る旧韓末期日本人居留民の生活」『アジア文化研究所研究年報』50、2016年2月)。
 ソウルは朝鮮王朝の成立後に首都となり、韓江(ハンガン)の北に位置することから韓陽(ハニャン)と呼ばれ、すぐ韓城(ハンソン)となりました。京城は日本の植民地になってからの名前です。『韓城新報』は1895年の創刊で、日本にいては見るのが困難です。延世大学校に所蔵の新聞を影印本として出版されたのを小澤(こざわ)先生が入手され、必要箇所の画像データを頂きました。
 明治29年6月24日付『韓城新報』の広告を見ましょう。
◎第壹會正風集題(夏季随意 句調正風)
入花(拾句壹組五錢餘ハ壹組三錢 ノ割合二テ詠草二添ユベシ)判者
豐秋園瑞穗宗匠樂撰(秀逸 本紙)
(二ヶ月分巻軸仝一ヶ月分第三次會貮組五客仝 壹組無入花十哲本紙五日分集句高二依リ增賞)
寄限(6月30日限 堅ク延バサズ)撰定(7月2日翌々 日ノ紙上ヨリ)
(掲載ス詠草二ハ居處雅號通稱等ノ明記ヲ乞フ)
投込所(韓城新報 社内)正風會
 全体に漢文調で、一行が小文字の二列に分割されているのは、「割注」です。
割注部分は、右の列を読んだあと、左の列を読んで下さい。俳句の募集で、「夏季随意」から、夏の雑詠です。「句調正風」から、雑俳や狂句を排除しています。
「入花」は投句料金で、1組10句なら5錢、2組の20句は8錢、3組は11錢に割引です。判者は撰者で、締め切りから発表まで早いので、韓城に住んでいることになります。外国在住の俳諧宗匠でこれより早い記録は見たことがありません。
 その次は特典で、読み方が難しいです。秀逸は新聞2ヶ月分が無料、巻軸は1ヶ月分無料です。第2會の募集も同じです。しかし、第3會になると、秀逸と巻軸は2組つまり20句の投句料が無料、五客なら1組10句の投句料が無料です。また、十哲は新聞5日分が無料です。補足で、投句が多ければもっと賞がでるとあります。
 6月30日が期限で、2日後の7月2日から新聞に入賞者を掲載と、超スピードです。鉄道がなく、歩きか馬だけですし、活字を拾って印刷する時代なのに。
 最後の韓城新報社内の「正風會」という記載が重要です。集まって句会を開くのではなく、コロナ時代のように郵便句会です。貞門や談林を除く意味で蕉風という言葉ができて、正風とも書くようになりました。後には、雑俳を除くという意味も加わりました。