韓の俳諧 (30)                           文学博士 本郷民男
─ 雉子郎選の日報俳壇 ─

 ホトトギスの俳人であった吉野左衛門が、1910年に『京城日報』の社長として赴任しました。そして、『京城日報』に日報俳壇を設けて、自ら選者になりました。けれども、初期の『京城日報』は失われて、見ることができません。1914年に吉野左衛門は病気のために退任して帰国し、石島雉子郎に後任の選者を依頼しました。
 大正4年(1915)9月15日の『京城日報』を見ましょう。
   日報俳壇 雉子郎選
  桐の花
桐咲くやかつて暴徒の出でし衛所 容堂
花桐や強き日の射る交番所 
暦見ねば物せぬ母や桐の花 山民
花桐や汗に克ち得し家の富 
花桐や家宝所望の御使 雲帝
代々の儒臣の門や桐の花 
桐咲くや雨夜ひそかに行く柩 碓川
  栗の花
焼けてまだ建たざる家や栗の花 潮外星
富めど代々杣を渡世や栗の花 
  合歓花
草籠に刈り満ちて旭出づ合歓の花 橙黄子
蹄鳴らして妹待つかに合歓の昼 
  葵
旅の窓葵見入れば帰思働く 韮城
鉄溶かす猛火葵の夜に映ず 
  紫陽花
紫陽花の枯葉こぼるる暗さ哉 義郎
紫陽花や日陰を待ちて草を引く 
  杜若
家空くを待つて移るや杜若 浦南
杜若妻に句作る心あり 
 選者の石島雉子郎(1887~1941)は16歳で俳句を学び、18歳で『浮城』を創刊・主宰し、ホトトギスにも投句していました。1913年に山室軍平の姪と結婚し、京城の救世軍本部の士官として赴任しました。京城では浮城会で俳句の指導を行いました。雉子郎は行田が故郷で、そこには石田三成の水攻めで知られる忍城がありました。水に囲まれて本丸だけ浮いているように見えたので、浮城というわけです。
 野村容堂、原田山民、雲帝、井草碓川は、京城の浮城会の人々です。野村容堂は雉子郎の誘いで救世軍にも入り、大正7年に20歳で夭折しました。神余潮外星は、仁川(インチョン)の人です。池田義郎は春川(チュンチョン)の江原道道庁に務める傍ら、ホトトギスに投句し、春川で俳句を指導していました。鵜川浦南は、その指導を受けました。
 楠目橙黄子は間組の社員で、雉子郎が辞任したあとの日報俳壇の選者になりました。後には、間組の社長になりました。遠藤韮城は橙黄子と同じ龍山にいたので、橙黄子に頼んで40歳を過ぎて俳句を始めました。韮城はホトトギスの雑詠や各地句会報に、かなりの数の作品を残しました。