韓の俳諧 (39)                           文学博士 本郷民男
─ 早期の韓人 ─

 江戸時代に外国人でありながら、俳句を詠んだ人がいたことは、既に書きました。明治以後については、誰が早かったでしょうか。許敬震(ホギョジン)氏の研究(「日本植民地時代における韓国人の俳句創作」)もありますが、独自の調査も加えて紹介します。雑誌『朝鮮』明治41年10月号の募集句「砧」に、気になる句があります。
  玉川に谺流るるきぬたかな 李雨景
しかし、「李雨景 仁川 小谷嘉吉君」とあるので、日本人として除外されます。
 次は新聞『京城日報』大正5年(1916)の元日の新年文芸俳句の秀逸句です。
   秀逸
門松を出て大山の雪に酔気吐大田 風骨
小松より明る家並や仄か也 仁川 李米吉
松飾り竜門に雪降り積もる 京城 林玉星
 許敬震氏は、この李米吉(イミギル)、林玉星(イムオクソン)の二名を、最初の韓国人俳人としました。
 確かに、これ以前の新聞や雑誌に、韓国人らしい名が見つかりません。しかし、新人の韓国人が、新年の募集句で上位十人にいきなり入選できるでしょうか。たとえば大田の風骨は、賞金荒しの強者です。李米吉は先に李雨景を名乗った小谷嘉吉で、韓国人の偽名を使って入選を狙ったとしたらどうでしょう。
 李米吉と林玉星は一発屋ですが、短期間ながら同じ大正5年の『京城日報』の、「平壌オンドル会詠草」に、集中して名を残した文而玉(ムンイオク)がいました。
尺狂ひも葬衣なれ霧の流るる夜 3月27日
普請余材を高積める霧の宮広々
火事を見入る船人に出船迫る湖 3月30日
昼火事の埃飛ぶ洲尻鴨浮ける
理髪鋏の音高き日短かの町 3月31日
今年就学の児に裁つ袴笹鳴くよ
樹立浅う笹鳴ける遠ちの斧谺
肥料過ぎし芽麦の艶を笹鳴ける
葱の枯れゆく畑に鶏の蹴合居て
万年筆の乱書きや更けて遠砧 4月2日
僧泊めし夜の遠砧雨となり
昔繁華の大樹なり渡船場の芒 4月3日
足を洗へば蜷の這ふ芒照る水に
松葉牛町へ引く四温入りの晴れ 4月17日
松葉売り門外の橋に荷据ゑたる
凧競ふに鐘鳴らす丘の教会堂 4月18日
凧影を追ふ眼の疲れ腹這へり
 これでも一部で、3月27日から4月18日まで、あきれるほど多くの文而玉の俳句が掲載されました。平壌に住む芳宙が自宅に句を送ってもらい、オンドル句会として新聞に載せて貰っていました。ところが、5月24日に、安東(アンドン)の芳宙の句が掲載されました。幹事の転勤でオンドル句会が瓦解し、文而玉の名も消えました。短期にこれだけ集中して投句したのが韓国人なのか、これまた疑問の人物です。大正5年に突如現れて消えた彼等三人の真相は不明です。