韓の俳諧 (42)                           文学博士 本郷民男
─ 忘れられた朝鮮公論④ ─

 『朝鮮公論』俳壇選者の青木静軒は、意外に広い交友がありました。大正4年(1915)の正月を病院で迎えた静軒に年賀・見舞状が寄せられ、来訪者もいました。2月号に俳壇とは別に、そうした記事が載っています。
 ■静軒居文芸録     青木静軒
 年頭諸家より寄せられたる雅信を左に録す。醒雪、春葉、黄雨諸氏の新年状に句なかりしと、寛民画伯の新年状に絵なかりしを憾みとす。
 ▢巖谷小波氏より
   おとぎばなし 兎の車
 兎が穴で寝て居りますと、そこに虎がやつて来まして「オイおきないか今度は君の番だぜ」と車を渡して行きました。兎は…
 ▢鵜沢四丁氏より
兎も角も卯年の春ぞはねて見よ
 ▢出口叱牛氏より
よろめきや正月袴着くづれて
 ▢江口虎耳氏より
展ぶ地図に屠蘇寒く垂るる喪旗
 ▢三好不考郎氏より
鍬だこの一つふえたる御慶かな
 ▢野田大塊翁より
冬の病ひ明くれば春の回起かな

 まず佐々醒雪(1872~1918)は、近代幕開けの俳文学者です。柳川春葉(1877~1918)は、尾崎紅葉門の四天王といわれた小説家です。川村黄雨(1863~1935)は、秋声会の俳人です。沢山寛民は明治・大正期に活躍した画家です。巖谷小波は児童文学、ことにおとぎ話の大家です。俳人としても尾崎紅葉や秋声会と活動を共にし、佐々醒雪と古俳書の翻刻・出版に尽力しました。
 鵜沢四丁(1869~1944)は秋声会の俳人で、『俳諧』を刊行し、連句の普及に貢献しました。出口叱牛は1872年生まれの俳人で、新宿に住んでいました。江口虎耳は1866年に生まれ、鉱山を経営し、京城に長く住んだ俳人です。三好不考郎は住所が全郊驛とあり、韓半島で鉄道の仕事をしていた俳人です。野田大塊は京城の東洋拓殖株式会社内となっています。植民地支配の国策会社の社員で「大塊老」と呼ばれました。
 ▢東山芳賀博士の来訪
里はまだ夢のうちなり春の朝 東山
春の雪すべりすべりて峯の底 東山
よき人と日向ぼつこに俳話など 静軒
 ▢目池松尾茂吉氏来訪
猫まけて骨正月を喰ひすぎな 目池
大寒を句法師二人暖かく 静軒
 陸軍軍医総監の芳賀榮次郎(1864~1953・東山)が見舞いに来ました。朝鮮総督府病院長や京城医専校長なども兼任し、医学の頂点にいた人物です。松尾茂吉(1878~1921・目池)は京城日報の編集長で、半島の俳壇に重きをなしました。静軒の人脈は、なかなか華麗でした。