韓の俳諧 (49)                           文学博士 本郷民男
─ 修行時代の日野草城② ─

 日野草城( 克修:よしのぶ )は、「1901年7月18日に、東京市下谷区山下町五番地に生まれた」とされていますが、年譜の書き出しからして、異議があります。
 復本一郎氏が、1937年の第一書房版『俳句文学全集』中の『日野草城篇』に、草城自身が1901年3月18日生まれと書いていることを問題にしました(『日野草城 俳句を変えた男』)。また、京都の三高の同級生が「草城君が三高に入学したのは、早生まれだったので、数え年で18歳の時です。」と書いています(水川清一「三高時代の草城君」)。復本氏は、戸籍上の届け出は3月18日であったが、本当の誕生日が7月18日だったので、定本の年譜では7月18日にしたのだろうとされました。
 次に出生地で、「山下町」は間違いです。下谷区上野山下町とすべきです。上野の寛永寺の山下として付けられた町名で、今の台東区上野六丁目、JR上野南駅前です。
 父の梅太郎は半官半民の日本鉄道で、鉄道の仕事をしていました。日清戦争の勝利で日本が大陸に進出し、漢城(今のソウル)から釜山に至る京釜線の建設をしていました。梅太郎はその工事で、単身赴任していました。日露戦争が終わった1905年の大晦日に、母に連れられた克修は、釜山の社宅に入りました。
 1907年に一家は、京城府西大門の官舎に移り、4月に克修は居留民団立南大門尋常高等小学校へ入学しました。朝鮮王朝の都城であったソウルは、延長12.8キロの城壁で囲まれ、八カ所の門だけで出入りが出来ました。官舎が西の敦義門(トニムン)にあり、小学校が南の崇禮門(ス ンレムン)のすぐ横にありました。6月18日に、堺の祖母キク宅にいた兄で中学生の寛一(ひろかず)へ、克修が葉書を出しました。
 申し上げます。兄さん今日・本たくさん有難う。お礼申します。兄さん来る時に、片仮名で書いた本持って来て下さい。平仮名はまだ習いませぬから、まだ読めません。
 京城西大門官舎二十九号 日野克修(原文はみなカタカナで電報式の文)
 ちょうど日本が朝鮮国から変わった大韓帝国を飲み込もうとした時期で、皇帝を名乗っていた高宗(コジョン)を強制的に退位させ、皇太子の純宗(スンジョン)を即位させました。高宗は有能といえませんが、滅びゆく王国の実質的な最後の王として、民衆に敬愛されていました。反日運動が盛んとなり、ソウルでは数万のデモ隊が行進しました。官舎にも流れ弾が飛んでくる事態となり、両親は幼い克修を堺へ避難させ、祖母キクと兄寛一に託しました。これも年譜の「市之町尋常小学校」へ転校は間違いで、堺市市之町にあった「市尋常小学校」が正しいようです。