韓の俳諧 (53)                           文学博士 本郷民男
─ 修行時代の日野草城⑥ ─

 「小学校の終りか中学生になり立ての頃、私は少年雑誌に投書をすることを覚えた。小品文や詩、時には短歌も作った。」(日野草城「朝鮮時代」)ということで、少年雑誌を調べました。多く見つかったのが、1915年(大正4)の『飛行少年』和歌欄です。
8月号 題 風
 三等 〇 朝鮮 日野くさまる(14)
  なみ立たず風もしづかにをさまりて鯨潮ふく玄界の灘
  評 雄大(選者は宮崎一雨)
9月号 題 露
 選外 〇 朝鮮 日野翠峰(14)
  ハラハラと露散る朝の悲しさよ庭の眞萩は色褪せにけり
10月号 題 紅葉
 選外 〇 朝鮮 日野くさまる(14)
  岩蔭を炎這ふごと紅葉せるかつら美し南山の秋
11月号 題 御大典 (草城なし)
12月号 題 飛行船
 選外 〇 朝鮮 日野くさまる(14)
  雲一つ動きもやらず山際の夕焼を行く飛行船かな
 中学3年生の草城は、偶数月に「くさまる」、奇数月には「翠峰」として和歌が入選しました。『飛行少年』は東京の日本飛行研究会が発行し、作文・和歌・俳句などの投稿ができました。草城の和歌が確認できたのはこの時期だけです。作文や俳句を含めて前後にもあたりましたが、発見できませんでした。同時期に、『日本少年』で入賞した和歌は、既存の草城に関する文献にも載っています。
1915五年10月号 和歌 題 高原
 入賞 △ 朝鮮 日野翠峰
  もろこしの長葉を辷る月光よ高原の夜は静かなるかな
  評 蟲の音に更けゆく
 『日本少年』は大手の実業之日本社が発行し、ライバル誌を圧倒し、当時の児童雑誌の世界を席巻しました(上野信道「大衆少年雑誌の成立と展開」)。『日本少年』の投書規則は葉書に一人一首、ペンか墨で書くなど厳格でした。その代わり、入賞者には七宝の銀メダルが贈られました。草城の作品が『日本少年』で確認できたのは、これだけです。
 当時の大衆少年雑誌の文芸欄には、俳句・川柳・ものは付・なぞなぞ・冠付など、江戸時代の遊芸のようなものが並んでいました。草城は俳句を含めてそういったものを嫌い、和歌に投稿していたようです。草城は『新少年』にも投稿していました。『新少年』の主筆は詩人の白鳥天葉(後の省吾)で、新体詩の欄を設けて、自ら選者を務めました。草城が詩を投稿したと思われます。残念ながら、『新少年』は近代日本文学館で少し所蔵している程度で、草城の詩は見つかりません。
 草城は投稿のために成績が急降下して、学校から叱責されました。1915年の一時期だけ、和歌に熱中しました。