韓の俳諧 (56)                           文学博士 本郷民男
─ 修行時代の日野草城⑨ ─

 日野草城が京城中学校を卒業した1918年(大正7)の、雑誌『朝鮮及満洲』4月号から6月号に草城の句がかなり載っていることは、本誌の2月号に書きました。その次に草城が熱心に投稿したのが、1918年7月1日に福岡で創刊された『天の川』です。吉岡禅寺洞が発行し、ホトトギス系の俳誌だったものの、後には新興俳句の拠点となりました。草城の名が見えるのは2号の8月号からです。
   雑 詠    長谷川零餘子選
鈴蘭に風光りをりみだれみだれ 朝鮮 草城
霜大きく溶けて焚火のまだ燃ゆる
   蚊 帳    原月舟選
しどけなう人は寝ねたり蚊帳廣し 朝鮮 草城
   炎 天    楠目橙黄子選
炎天の物賣の顔やいたましき 朝鮮 草城
 次の9月号には草城の俳句がないものの、「或る午後」朝鮮 日野草城として、ごく短い小説が載っています。和歌を詠む少年と田舎駅の若い助役が登場し、どうみても草城と父がモデルです。「今日もけふ白き手先をそと曲げて苺つみ居り農園の女」という和歌まで入っています。
 10月号の雑詠にその父子の句があります。
   間島オランカイの▢にて
青嵐馬車石に激し人踊る 朝鮮 静山
   安東
雪に暮れて支那馬車の鈴大いたり 朝鮮 草城
 おそらく草城が両方を投句したのでしょう。草城の才能を買って『天の川』で誘ったら、その父もおまけに付いて来ました。間島は中国と韓半島の東側国境地帯です。オランカイとは、その辺りに住んでいた女真族を韓国側でさげすんだ呼び名「オランケ」に由来し、昔なら女真族の住んだ土地をオランカイと呼びました。資料がマイクロフィルムで、判読できない文字を▢としました。安東は韓国の慶尚北道にもありますが、これは今の北朝鮮との西側国境の中国領丹東の旧名です。丹東は、中朝貿易の列車やトラックが鴨緑江を渡る拠点です。
 ホトトギスの同年10月号「地方俳句界」にも、この父子らの句が載っています。
   静山居小集(京城)草城報
山宿や蚤取粉撒きてより床に入る 静山
覺めし子の背に居る蚤や帯固し 迦南
蚤の如く肥りせめたる女かな 草城
 父静山の家で、横井迦南を指導者として句会を開いたのでしょう。草城は3月に京城中学校を卒業して、9月に京都の三高へ入学しました。そんな時期にも俳句を投稿したり、句会を開いたりしていました。受験生の息子の俳句を辞めさせるどころか、父もいっしょに俳句を楽しんでいました。草城は三高の入学が決まった夏に俳句雑誌へ投稿するなどして、韓半島を出ました。