韓の俳諧 (57)                           文学博士 本郷民男
─ 臼田亞浪の進出① ─

 雑誌『朝鮮公論』の俳壇を前に取り上げました。青木静軒が選者をしていた時には安定していましたが、その後は選者が頻繁に代わったり、休載となったりしました。1925年(大正14)7月号から、突然に臼田亞浪選となりました。6月号は吉澤帝史選で、8月号を吉澤帝史選として募集したのにもかかわらず。
 公論俳壇 臼田亞浪先生選
すくひあげし金魚のいのち日暮れかな 神崎羊聲
葉櫻の山路となりぬ鳥あはれ
葉櫻を降りぬく雨に冷やりとす 大田道船
摘草の手先きにざるる仔犬よな 島津毅
摘草や土手の凹みに水湧いて
崖上の桃仰がるる雲垂れて 井原虚水
浮き草のもとに金魚のひそまりぬ 大田道船
葉櫻に餅たろべ(ママ)ゐる小猿かな 甲田夢水
大櫻葉となん濠水(ママ)くらし 高橋岩月
水際の棕櫚騒がせつ南風暮るゝ 筒井樹九路
 選後に 亞浪
◇速やかにこの俳壇を引き受けることになつた。『石楠』を主宰する外に幾つもの新聞や雑誌の俳壇與かつてゐることでもあり、一と通りの忙しさではないが、引き受けた以上、出来るだけ務めてゆきたいと思ふ。投稿家諸君も一層の努力を續けて欲しい。やりかけたからには、何處までもやりぬく覺悟がありたい。鬼貫も臨終の夕べまでの修行といつてゐる。…
 俳人のために 臼田亞浪
□私は俳人の誰れをも愛する。俳句に親しむ純情な人々といふ意味に於て。それ故、私には唯だ眼前に置かれた俳句そのものがあるばかりである。其處に置かれた俳句の是非觀があるばかりである。…
 臼田亞浪先生を迎へて
 我が社の俳壇は月を追ふて號を重る毎月投吟者諸君の御努力に依つて益々旺んになりつゝありまするは編輯子の欣愉とする所であります。然るに去る月吉澤帝史先生は郷里に歸國されましたので、何角と不便を感じつゝありましたのを實に遺憾と思ふて居りましたが、今度東京否日本俳壇界に於いて其の一ありと知られて居りまする『石楠』の主宰臼田亞浪先生に選をお願することになりました。…

 臼田亞浪(1879~1951)は、1915年に俳誌『石楠』を創刊し主宰しました。植物のシャクナゲなら石楠花と書くのを、花を除いて石楠とし、シャクナゲと読ませました。『石楠』は『ホトトギス』に対抗するような力を持った時期もありました。発行所不明の1922年俳人番付には、名人格十位に臼田亞浪が入っています(村山古郷『大正俳壇史』183頁)。臼田亞浪が『朝鮮公論』俳壇の選者をした事実は、亞浪の年譜にも『石楠』にも書かれていません。
 しかし、この選者就任により、韓半島に『石楠』の俳人が増え、支部もできました。韓国の俳壇史においても、『石楠』の歴史においても無視すべきではありません。