韓の俳諧 (58)                           文学博士 本郷民男
─ 臼田亞浪の進出② ─

 雑誌『朝鮮公論』の俳壇の選者を、1925年(大正14)7月号から『石楠』の臼田亞浪が担当したのですが、当時の『石楠』はどうだったでしょう。明記されていないのですが、『石楠』は、幹部同人・同人・会員の三種に分かれ、雑詠が三種ありました。雑詠欄の名称が毎月違うので、混乱します。また選者が明記されていません。他に課題句欄があり、出題も選句も幹部同人が担当しました。1925年には朝鮮・京城などという同人が見当たらず、たまに会員の雑詠に出てくる程度です。では会員の雑詠を見ましょう。

 1月号      朝鮮 筒井樹九路
葎枯る蝗の青さかなしかり
 3月号      朝鮮 筒井樹九路
梢のみの西日に群れて鶸が鳴く
山の町雪雲に今日も壓されゐる
 5月号       朝鮮 相澤草水
屋根の雪吹き下ろす夜の街きびし
炭の匂ひ更くる夜の壺の花澄む
水枯れて匂ひするどき日暮かな
 5月号      朝鮮 筒井樹九路
蕪汁や雨に暮れたる落葉宿
日落つれば土くれ冴ゆる二月かな
 8月号       朝鮮 横山柯子
障子あけて花の夕餉の二人きり
行春の花菜は莢となり行くか
 このように、『石楠』に韓半島から投句していたのは、筒井樹九路と相澤草水くらいです。『朝鮮公論』7月号の俳壇には、筒井樹九路の句が載っています。また、『石楠』9月号の雑詠の巻頭は「京城 相澤草水」です。ところが、二人とも名が見えるのがこの時期だけで、どんな人だったのか手掛かりがありません。同年の『石楠』3月号には、満洲の鉄嶺盟楠會の第一回句会報が載っています。台湾と満洲には『石楠』の支部ができていましたが、韓半島は支部どころではない状態でした。注目すべきが、『石楠』7月号の「編輯後記」の以下のような記事です。
🔲住所移動の通知のありました人々は

庄司鶴仙氏 京城府初音町204

1926年の『現代俳人名鑑』には  鶴仙 庄司淸次郎
〔現住〕  朝鮮京城府初音町204
 明治25年(1892)2月5日宮城懸宮城郡岩切村に生る。記者、大正4年(1915)愚佛先生に、後乙字先生を經て、今日亞浪先生に師事し、京城盟楠會を組織す。

 愚佛とは検事正の瀧川長教(1858~1944)で、秋声會の名士俳人です。大須賀乙字(1881~1920)は俳壇きっての論客で、『石楠』の創刊に関与しました。鶴仙はそうした流れで、『石楠』に入りました。ちょうど亞浪が『朝鮮公論』の選者となった時に京城へ移住した鶴仙が、京城に『石楠』の支部を作ることになりました。