韓の俳諧 (61)                           文学博士 本郷民男
─ 臼田亞浪の進出⑤ ─

 雑誌『朝鮮公論』1926年(大正15)7月号の公論俳壇を見ましょう。
  俳 壇  臼田亞浪選
藁屋根の日陰がちなる栗の花 堤玆歛
花栗やこの一山の墓ばかり
花栗や往還に出て炊ぐ人 土山紫牛
羅や舷冷えのいつまでも
花栗や雲かゝりたる湖の 西村公鳳
羅や曇れば寒き草の風
裏木戸の大閂や栗の花 北川左人
花栗の或はこぼれ石馬かな
羅や足袋に付きたる土埃り 庄司鶴仙
羅や橋にかゝりて佇みし
宿の娘の夕化粧よき綾羅かな 末石休山
格子窓花栗よりの昼の風
  三 等(賞金一圓) 
羅に氷かく音親しかり 庄司鶴仙
  二 等(賞金二圓)
羅や肩にかかりし檐灯影 西村公鳳
  一 等(賞金三圓)
花栗の山のどこやら鳴く郭公 堤玆歛
  京城石楠會(鶴仙)
 6月9日午後7時から鶴仙宅で例會を兼ね今度東京より京城に居を移された西村公鳳氏の歡迎句會を開いた。同氏は『石楠』の誌友『高潮』の同人であります。同夜の參會者は春川よりの大山草氏を初め十六人の多數で實に賑やかな句會であつた。…
 『朝鮮公論』では7月号から小作文・短歌・長詩・俳句の上位人に、賞金を贈呈する制度を始めました。
 西村公鳳(1895~1989)は、石川県出城村(現白山市)に生まれ、東京農大を卒業して内閣府統計局に務めました。父の西村正則(1866~1924)は豪農で、出城村長を皮切りに県会・国会議員を務める一方、土建業などを営む実業家でした。韓半島には朝鮮興農を設立しました。公鳳は父の死後に公務員を辞めて、朝鮮興農の重役として京城に移住しました。公鳳は学生時代から服部畊石(初号・耕石、1875~1935)の「高潮」の会員でした。畊石やその父の耕雨は、旧派以来の宗匠でありながら、旧派を批判して新派の一つの秋声会に加わっていました。畊石も村長をしたことがあり、公鳳と似たような出自の知識人でした。
 堤玆歛は石楠の人という以外は、わかりません。土山紫牛は1905年生まれで、まだ京城高等商業の学生でした。後に、金融組合要するに農協に務め、農業の振興に生涯を捧げるとともに、俳人として活躍しました。北川左人(1890~1961)は京城日報の記者で、1930年には『朝鮮俳句選集』を刊行しました。末石休山もまだ京城大学法科の学生でした。「朝鮮公論」の俳壇には人材が集まり、「石楠」支部の活動も盛んになりました。支部を創設した庄司鶴仙に代わって、西村公鳳が支部の中心となって行きます。1946年に沢木欣一が金沢で「風」を創刊した時、公鳳は金沢に引き上げていました。自分では創刊せず、「風」に参加しました。