鑑賞「現代の俳句」(104) 蟇目良雨
雲が雲追うて津軽の大花野 小野いるま
[薫風・銀化]
「俳句四季」2016年12月号
日本列島はプレート同士がぶつかり合い、背骨に当るところに脊梁山脈が発生し表日本、裏日本と言われる気候の差を作り出す原因になっている。ところが津軽はこの脊梁山脈が途切れるため日本海側と太平洋側の気候の差が生じないから雲は楽々と津軽の上空を素通りしてゆく。掲句に広々とした感覚が出るのは此の津軽の特徴による。いつも見えている岩木山でさえ視界の邪魔をしない。大花野の上を雲が次々と流れてゆく秋のひとときの寛ぎの後にやがて地吹雪を伴う厳しい冬がやって来るのだが。
かなかなや寝藁に牛の戻るころ 須原和男[貂]
「貂」2016年12月号
サトウハチロー作詞、中田喜直作曲の童謡に「夕方のお母さん」がある。「かなかなぜみが遠くで鳴いた ひよこの母さん裏木戸あけて ひよこをよんでる ごはんだよ やっぱりおなじだおなじだな」という内容だ。「やっぱりおなじだおなじだな」は人間もひよこも同じということ。掲句も、誰が教えたわけでもなく牛が牛舎に戻って夕ご飯を食べて寝につく光景を想像させる。カナカナ蟬の強烈な聲には万物に夕支度をさせる力があるようである。
曖昧に唄をつなぎて盆踊 山崎祐子
[りいの・絵空]
「俳句」2016年12月号
この句を見て思い出すのは「西馬音内の盆踊」である。優美な男と女の踊にそぐわない盆唄(私にとって)が頭上から降り注いでくる。意味の通じない唄なら聞き流すだけだが、意味が分かると引っかかる。よそ者がとやかく言うものでは無く曖昧に唄を聞いてあげるのも一つの作法かとも思うのだが。曖昧な唄には庶民のエネルギーが籠められていることを承知の上でこの文章を書いているのであって、もう一度見てみたいと願う自分がいつもいる。
貞任の背にさめざめとつづれさせ 片桐てい女[春燈]
「春燈」2016年12月号
安倍貞任の小さな木像の背に止まって蟋蟀がさめざめと鳴いているというのが句意。安倍貞任は前九年の役で朝廷から派遣された源頼義に滅ぼされた奥羽俘囚長で、朝廷にまつろはない蝦夷のリーダーだった。朝廷の威はまだ東北全体に及んでいなかった時代だったから、足掛け十二年にも及ぶ長い戦になった。敗軍の将の哀れさを蟋蟀を通して的確に描き切った佳句と思う。芭蕉の〈むざんやな甲の下のきりぎりす〉は斎藤別当実盛を偲んだもの。何れ甲乙つけがたいと私は思った。
片心あり鈴虫を鳴かせては 佐怒賀直美[橘]
「橘」2016年12月号
片心ありとは「少し気にかかる」の意。鈴虫を鳴かせて作者は何を気にしているのだろう。名門俳誌「橘」を引き継いだ作者は相次いで創始者の松本旭、翠の両師を失った。心の空白に響く鈴虫の声に「励め、励め」と自らに鞭打っているのかもしれぬ。作者の直美(なおみ)は男性、蛇足ながら。
出奔もならず水草紅葉せり 鈴木節子[門]
「門」2016年12月号
火の恋し淋しき膝をそろへては 徳田千鶴子[馬醉木]
「馬醉木」2016年12月号
春郎先生の枕頭に侍っている時の光景であろうか、交す言葉も少なくただ膝を揃えて病床に対座している時のうそ寒い感じが「火恋し」を齎した。芭蕉臨終の〈うづくまる薬缶の下の寒さかな 丈草〉を思い起こさせる。
龍淵に潜む成すべきことを成し 市ヶ谷洋子[馬醉木]
秋も深まり天に登っていた龍が再び淵に潜んだことに因んで、春郎先生が「馬醉木」で成すべきことを成して、今は静かに淵に潜んだ龍のようだと称えている。作者がここに龍を持ち出したのは春郎先生の句集『蒼竜』にちなんでのものだろう。
師の旅の千里を照らせ龍田姫 長谷川翠[馬醉木]
龍田姫は千鶴子さんをイメージしているのであろうと思った。
止め椀のころほひとなる良夜かな 佐藤博美[狩]
「俳句」2016年12月号
会席に招かれた時の光景か。お料理が進んで最後の止め椀になるころ良夜に相応しい宴であったと実感出来たのである。こう書くと何だか仰々しいが、仲間と居酒屋で酒を楽しんでいて最後を茶漬けなどで締めたとしてもいいだろう。心では「止め椀のころほひとなる良夜かな」と楽しんでいるのである。
秋思ふと手に乗る鳥のおもさほど 如月のら[郭公]
「俳句」2016年12月号
秋思の重さを比定したところが面白い。手に乗る鳥と同じ重さでしたと言っている。言われてみればそんな気もする。「秋思とは」と断定しなかったことで同調者を増やしたのではないだろうか。
赤淋し白なほ淋し曼珠沙華 稲田眸子[少年]
「少年」2016年12月号
曼珠沙華は不思議な花だ。死人花とか捨子花などとも言われるが、それでもなお曼珠沙華を見ないと秋が深まることを実感できない。一般に赤が多いが稀に白の曼珠沙華もある。作者は赤の曼珠沙華を見て寂しい思いをするが、白曼珠沙華を見るともっと淋しくなると言っている。曼珠沙華に雨が降らなくても淋しいことがよくわかった。
みすずかる信濃科の木雪降り積む 西嶋あさ子[瀝]
「瀝」2015年冬号
句意は信濃に多い科の木の上に雪が降り積んでいることよということ。特にこれといった内容を言っているわけでもないのであるが、これも俳句の作り方の一つ。信濃と雪。当たり前のことであるがだれにでも納得してもらうための仕掛けがこの句には仕込まれている。信濃の冬を丸ごと描き切っている。〈落葉松はいつめざめても雪降りをり 楸邨〉にも信濃雪国の情が詰まっている。
ぺーチカのお帰りなさいと言ふ炎 源鬼彦[道]
「俳壇」2016年12月号
外から帰って来て扉を開けるとペーチカの炎が風に揺れる。その形がお帰りなさいと言っていると看做した作者の童心に拍手。
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