曾良を尋ねて (89) 乾佐知子
ー原田甲斐刃傷事件までの一考察ー
寛文7(1667)年に起こった伊達安芸宗重と式部宗倫(むねとも)の谷地問題については拙稿に詳しく述べているが、安芸の所有する谷地を三分の一に減らしたことに対して安芸が猛烈に反発し、二年後の9年に検地の決定に従うこととなった。ところがその実測の結果安芸の谷地は約四〜五分の一になり更に悪くなったのである。そこには検地の際の巧みな工作があった。
この実測をした人物らの中に目付の今村善太夫なる者がいた。この者は以前四人の綱村近従を殺した渡辺金兵衛と同じ兵部宗勝の腹心であった。とすれば兵部が兄の式部宗倫に有利な裁定を下すように指示してあった可能性が充分にあり、これは始めから安芸を挑発し紛争を起こさせる為に仕組まれたものであったと推測される。この裁定に激怒した安芸は翌10年幕府に訴状を提出したのである。
この谷地紛争は藩の内紛を幕府にさとられて改易の口実を与えることとなり、原田甲斐にとって最も恐れていた事態となった。
酒井雅楽頭と兵部の密約を知って以来、ひたすら兵部の腹心を装ってきた甲斐であったが、最も頼りとする茂庭周防定元を失い、今また味方の一人である安芸が自ら訴えを起こす首謀者となってしまった。
五年前から始まったこの谷地紛争は当初は安芸も甲斐の必死の説得に不本意ながら、藩の申し出を受け入れ自重していたが、次々と起こる露骨ないやがらせに遂に堪忍袋の緒が切れたのであろう。江戸にのぼった安芸は幕府以外にも将軍補佐で会津二十三万石の保科正之や伊達の分家である宇和島七万石の伊達遠江守宗利にまで使者を出し訴訟の趣旨を述べている。
安芸のこの猛運動に対し藩士の中からも賛同する者が多く現れ、安芸の利害だけに限らず日頃から兵部らの警察政治に不満を持つ者により安芸のさまざまな工作は優勢の様子を呈してきた。
この時点で、兵部、甲斐、金兵衛の党とこれに対する安芸、田村右京、奉行の柴田外記らの兵部に不満を持つ藩士の矛盾対立は最大となっていった。勢いを得た安芸は翌年になるとますます各方面へ書状を送り他藩をも巻き込んでいった。この事態に幕府はたびたび安芸を呼び出し事実の確認を行っている。
安芸は己の谷地配分問題以外にも寛文年間に入ってからの兵部一派による厳しい警察政治によって百人以上の者が斬罪や切腹の刑に処せられていること等を詳しく訴えた。
原田甲斐はこの兵部一派としてみられていた為に伊達家中でも孤立する傾向となり、兵部や金兵衛の悪業を一人背負う羽目となった。
遂に寛文11年3月27日、幕府による最終審問が行われることとなり、藩より伊達安芸、柴田外記、原田甲斐、古内志摩の四人が召喚された。場所は板倉邸とのことであったが正午ころになって、大老酒井雅楽頭の屋敷に移るよう指示があった。
甲斐は最後の切り札として、茂庭周防から預かった酒井忠清と兵部との間で交わされた証文を懐に入れていた。尋問の場でこれを出し老中、目付衆に訴えるつもりであったという。『樅の木』にはこのようにあるが、この作戦について甲斐は安芸と老中の久世大和守にのみ告げていた。
この日幕府側には大老、老中、内膳正、目付等の九名が列座していた。その中に四人は順々に一人ずつ呼び出され尋問を受けた。
この直後の事件発生については多くの史料によってすこしずつ内容が違っており、どれが事実かはさだかではない。
二度目の呼び出しを受けて立った時、甲斐がいきなり安芸に斬りつけたという医師の証言による説もあるが、これに対して酒井家のものは大部違っている。無論『樅の木』に至っては全く別のものであった。__
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