鑑賞「現代の俳句」(119)                     蟇目良雨

 

筆談の言葉は褪せず霜柱 陽美保子[泉]
「泉」2018年2月号
 喋る言葉の危うさを指摘している句と感じた。言葉の大切さは確信をもって発した言葉にあるのであって会話の中で交わされる言葉の中にはその場しのぎの虚ろな言葉が混じっているはず。一方、書物に書き残した言葉はいつまでも作者を追いかけて来る。掲句、不自由な人との対話の場面で筆談の代えようのない言葉の重みと、霜柱の美しさと危うさを対比させたもの。

あるだけの星の光やぬくめ鳥細谷喨々[一葦]
「一葦」2018年1/2月号
 「ぬくめ鳥」は鷹などの猛禽類が寒夜の脚の冷えを防ぐために小鳥を摑まえ翌朝放すという珍しい習性のこと。一面の冬の星の見える凍てついた夜空に樹上から小鳥の声が漏れ聞こえてくる。鷹のような大きな鳥影は見えるが小鳥の姿は見えない。ああ、これがぬくめ鳥なのかと作者は思ったに違いない。

天に鷹地に野仏の古戦場渡井惠子[甘藍]
「甘藍」2018年3月号
 空に鷹が飛んでいて地上には野仏が見える古戦場跡ですよというのが句意。この単純な光景からじわりと滲み出て来るものは、現在行われているシリアなどの戦闘行為ではあるまいか。鷹は無人爆撃機で、野仏は罪のない民の死体。イスラエルとパレスチナの一方的な戦いも野仏をいとも簡単に増やしている。こんな恐ろしい光景を連想させる句と思った。

吊し売る帽子をはたき冬うらら岩田由美[秀]
「秀」2018年春号
 何気ない街角での一コマ。寒さが厳しければ売れるのだが、冬うららのせいで売れない帽子に店主がはたき掛けをしている。帽子から立つ埃が冬の陽光にきらきらと輝く。冬うららそのものの光景だ。

春の夜やノック三つは待ち人來 西嶋あさ子[瀝]
「瀝」2018年春号
 ノックの数を合図にするお相手とはどんな方か?。玄関のドアをノックするシーンでは日本の住宅事情に合わない。建物の中の個室のドアをノックする光景が相応しい。春の夜だからいつもより少し心浮き立つ場面だろう。物語がどんどん膨らんでゆきそうだ。
同時作〈アネモネのどの色も情濃かりけり〉には色から感じた情だけでなく、花の形が醸し出す風情にまで立ち入って情が濃いというアネモネの本質を強調する。
 同誌からさらに二つの句に触れてみる。

ゆく春の汽笛に汽笛こたへけり金子和実[瀝]
(同)
 無機質な汽笛が感情を持って鳴っていることを作者は言っている。汽笛は船のものであろうか、それともすれ違う列車のものであろうか。本来は文字通り蒸気の噴き出す時の音。高圧で噴出される蒸気の作る音は鋭く甲高いが、行く春を惜しむ頃になると物悲しく聞こえるから不思議。

コンビニに届くや夜学始業ベル坂本ひろの[瀝]
(同)
 コンビニはおよそ50年前に日本に入って来てあっという間に全国に広まった。フランチャイズ制度が殆どなので個別の店の利益よりも本部の利益が中心になるからたとえ儲けが薄くてもどんどん出店する。掲句は学校のそばに出来たコンビニに夜学の始業ベルが聞こえたということ。コンビニで夜食を探している夜間中学や夜間高校の生徒の姿が浮かぶ。

水脈のごと枯野を引いて上野着 今瀬剛一[対岸]
「WEB俳句通信」2018年3月
 上野駅は東日本の多くの人々の心の終着駅として長く存在した。新幹線が延長し今や上野(東京)から北海道の函館まで直接乗り込める時代になっても上野駅は東日本の人の玄関口になっていることは変わりがない。作者の住む常磐線沿線は新幹線敷設から取り残されたがために距離は短いのであるが、上野が東京の玄関口であるという意識は強いのではないだろうか。常磐線一帯の田園風景は日本の懐かしい風景を引きずっているのである。枯野の風景は水脈のように車窓を流れてゆきやがて上野駅に到着する。

ふるさとが平らになりし寒さかな 岡野由次[泉]
「泉」2018年3月号
 ふるさとそのものが消滅する現象は今後、人口減少が続き、過疎化が進むと現実のものになるだろう。掲句はその一歩手前のふるさとの実家を処分して平らになった淋しさを詠っているのではないか。

花紫にほふ武蔵野六三四の塔田中幸雪[麻]
 「麻」2018年2月号
「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(額田王」「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(大海人皇子)」の紫の花。古来武蔵野は「むさむさと」した土地と蔑まれてきたが今や紫も咲き六三四(むさし)という塔も出来ましたよと見直している。六三四は東京スカイツリーのこと。六三四メートルの高さから連想したもの。こんな機智も必要。

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