鑑賞「現代の俳句」 (128)                     蟇目良雨

 

帚草風の籠もりてまんまるし小林愛子[万象]
「万象」2018年11月号
 帚草がまあるい形をしているのは風が内側に籠もっているからですよと言っている。そんなことはないと言っても始まらない。作者がそう感じたのだから素直な詩心として受け入れたい。例えば、〈小鳥死に枯野よく透く籠のこる 飴山實〉の空っぽの籠は引き算の詩心、風が詰まって真ん丸の帚草は足し算の詩心と言える。ちょっと見方を変えることで単なる写生に深みが出てくると思った。

さかのぼる舟影二つ神の留守下條杜志子[雲取]
「雲取」2018年12月号
 舟が川を下れば賑やかな町にたどり着き、さかのぼれば人知れぬ里にたどりつきそうな気がする。神の留守の間に二つの舟が寄り添って上流へ向かう。遡るという行為に濁世を逃れる作者の心境を感じた。二つの舟が何となく艶めかしいと思うのは私だけではあるまい。

送り字のごとく椿の返り花三田きえ子[萌]
「萌」2018年12月号
 送り字とは言葉を省略して書くときに使う「〈 」とか「々々」などの記号。前文にはっきりとした言葉が置かれ読みに間違いがないときに使われる。別名「踊り字」。掲句の場合、庭の椿の木に狂い咲いたいくつかの花を見て、春先の椿の花の盛りの光景が一瞬に想像できたのであろう。

寒雷に晩年の景定まりぬ大牧 広[港]
「俳壇」2018年12月号
 自らの晩年の景が寒雷の轟と閃光により自得できたと言っている。余生とか晩年とか高齢になるにつれて意識しなければならないテーマだ。もし若い人が「余生」うんぬんを詠ったとするなら重い病気などを抱えているから余生を考えるのかなと思って鑑賞してしまうだろう。俳句作家の実像がはっきり分かってから、こう言う句は鑑賞しないといけない。掲句作者の経歴を知っているから安心して私達はこの句を鑑賞できるのだ。やるべきことはやったという充足感が句から溢れ出ている。

あららぎの実に存問の風の音 増成栗人[鴻]
「俳句四季」2018年12月号
 あららぎ(一位の木)は小さな赤い実を付ける常緑針葉樹で、寒さに強く高木にはなりにくいが枝をよく張るので生垣に利用される。秋に透明感のある赤い実を付けるので抓んで食べたことがあると思う。〈手にのせて火種のごとし一位の実 飴山 實〉の例句があるように色彩の乏しくなる晩秋に目立つ赤い実である。
 掲句は赤い実に誘われてあららぎの前に立つとしきりに風の音がする。枝から零れやすい赤い実を気遣ってのように吹く風のように作者には思えたが、同時に作者の身の上を案じて吹く風の音のようでもあった。「存問の風の音」を私たちも聞いてみたいものだ。

遊行忌や持てば風来る草箒中根美保[一葦]
「一葦」2018年11/12月号
 遊行忌は鎌倉時代末期に活躍した一遍上人の陰暦8月23日の忌日。松山の出身だが全国を布教に歩き、「一所不住」を貫いた。各地にある時宗の寺は一遍の弟子たちが建てたもの。掲句は遊行忌の日に部屋を掃き清めるために手にした草箒に一陣の風がやってきたことを詠っている。一遍上人の「捨ててこそ」の教えを具現したように箒ですべて掃き清め、風に載せて消し去る心構えを暗示しているようである。正確な写生と深い思い入れが句を確かなものにしている。

隼の風の眼光たかたぬき古田紀一[夏爐]
句集「見たやうな」より
 この句は、隼を狩に使いこなすための訓練のひとこまを描いている。作者は信州の人でこうした光景は信州ではよく見られる光景なのかも知れぬ。東京では正月に浜離宮で放鷹の催物があるが、ここでも隼が放たれるのである。「たかたぬき」なる言葉は鷹匠が手に付けている保護手袋のこと。たかたぬきの上に止まって獲物を狙っている隼の鋭い眼光を風強き日に見た感動を詠っている。「風の眼光」と省略して引き締まった句になった。

大阪の好きな人らに近松忌茨木和生[運河]
句集「潤」より
近松門左衛門は大阪を代表する江戸中期の歌舞伎狂言・浄瑠璃作者。「冥途の飛脚」「女殺油地獄」「心中天網島」「国性爺合戦」などの名作を残している。大阪下町の様々な悲劇を脚本にしたから大阪人には堪えられない。井原西鶴も生涯大阪から離れたことが無かった。大阪は近松や井原を生んだように生き生きと人生を過ごせるところのようだ。大阪には住んだことがないが住めば人格ががらりと変わりそうな気がする。

(順不同・筆者住所 〒112-0001 東京都文京区白山2-1-13)