鑑賞「現代の俳句」 (139) 蟇目良雨
じやあと手をさはやかに挙げ振り向かず檜山哲彦[りいの]
「俳壇」2019年11月号 (池内紀さん二句 のうち一句)
池内紀(おさむ)さんはドイツ文学者。檜山さんとは東大で職場を同じにした先輩にあたりドイツ文学をベースにして様々なジャンルで文筆活動を行った。晩年の書『ヒトラーの時代 ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』(中公新書2019)で独裁者を誕生させた時代を読み解き、日本も含む現代社会への警鐘を鳴らした。後書きで、この本の執筆はドイツ文学者として「課せられた義務」と強調する。穏やかな人ながら信念の人である。そして世を去るときも静かに手を挙げて後を振り向かないまま行ってしまったと檜山さんは感じとったのだ。8月30日没、享年78。「さはやか」が池内さんを送るに相応しい言葉になった。
登山小屋電気消すとき紐を引く菅野孝夫[野火]
「棒」2019年10月号
天井から50センチ位下がった位置に、硝子かアルマイトの円錐形の笠を乗せた紐付きスイッチの電気照明器具がかつてあった。紐を引くたびに電灯が点いたり消えたりした。戦時中はこの笠の上に黒い布をかぶせて灯火管制に備えたものだ。紐の長さは替えられるので病床の上の電灯には長い紐をつけて患者が寝ながら点けたり消したり出来た。さて、掲句は山小屋の光景であるからぎゅうぎゅう詰めの雑魚寝の中で紐の真下の人が半身くらい起こして消灯の紐を引いたのではないか。紐の存在によって山小屋の混雑ぶりが目に浮かぶような構成になっている。
地に着きし年金暮し衣被松橋利雄[春燈]
「春燈」2019年11月号
年金の情勢がどんどん悪くなっていると聞く。そもそも年金は戦前に軍艦建造資金として集める目的で始められたので、国は返す意思がないから年金管理が初めから杜撰だったという話を聞いたことがある。しかし現役を退いた人にとっては頼みの綱であるから国には頑張ってもらわなければならない。収入が年金だけになってそれでやり繰りしなければならないとは大変だと思う。後が無いのである。ようやく年金暮しに慣れてきたころの衣被に、一合の酒が付けば良しとするような人生を達観した句になった。
三界に長居いつまで穴まどひ松林尚志[木魂・海原]
句集『山法師』より
松林さんは盤水先生とのお付き合いから、春耕に芭蕉や蕪村の俳論を書いていただいたことがある。私より一回り上のお年にも拘らず大変お元気である。そんな松林さんであるが掲句は御自身を客観視して作られた句のような気がする。「三界にいつまで長居するつもりなのかね穴惑い君よ、そろそろ暇を告げなさい」とご自身にも言い聞かせているように私には思える。芭蕉は50歳、蕪村は68歳で亡くなっている。二人の年齢をはるかに越えて俳諧の世界で生きてこられた充足感がきっとあったに違いない。芭蕉や蕪村の高齢の時の作品を知りたいと思っておられる諸氏に参考になる句だと思った。
これほどの大夕焼に音のなし鈴木節子[門]
「俳句」2019年10号
自然現象は実に変幻自在である。掲句のような大夕焼も然り、星空の美しさ、流星のはかなさ、虹の美しさ、オーロラの極光もまさに変幻自在の現象である。これらは自然現象であるので現代では科学の力で解明することが出来る。しかし掲句のように大夕焼がこんなに美しいのに何故音も立てないのだという疑問は縄文人以来の疑問であろう。大夕焼がこれほどまでに圧倒して迫ってくるのに音を伴わないのは何故と思う心はアニミズムのなせる業であろう。アニミズムを失くしたら詩は生まれないだろう。
ひといろはたましひの色秋の虹江崎紀和子[櫟]
「俳句」2019年10月号
七色の虹の色のうち一色は魂の色に思えるというのが掲句の言わんとするところ。春の虹でも夏の虹でもなく秋の虹に魂の色が含まれていたという発見がこの句の眼目。どの色と指定しなくても素直に感じ取れるのは、作者が感じたことに「まこと」があったから。
いつぽんの竹切るために身を細め能村研三[沖]
「沖」2019年11号
竹は秋に収穫することが昔からの習わしである。成長の早い竹であるが繊維がしっかりとするまでに半年の時間が必要だからだ。今は竹の需要は少ないが、かつては笊や箕の材料、塗り壁の芯、茅葺屋根の下地、桶の箍、雨傘の骨から彫刻の材としても利用されていた。掲句は一本だけ竹を切るために竹林に入り込んだ様子を描いたものだが、密集した竹林の中の奥の方に一本だけ切りたい竹がありそこに辿り着くために身を細くした様子を描いている。何に使う竹なのだろう。
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