鑑賞「現代の俳句」 (145)                     蟇目良雨

春が来て日暮が好きになりにけり黛 執[春野]

句集『春が来て』より
 「春はあけぼの」は清少納言の好み、しかし春の曙はまだまだ寒く清少納言は少しやせ我慢しているのでは無いだろうか。作者は日暮れどきの春が好きだと言っている。しかも春が来て何日かを過ごし体がそれに慣れてきて初めて日暮れが好きになったと言っているようだ。年齢を重ねてきて初めて得られる境地を作者は喜んでいると思う。

春炬燵蕪村の恋のはなしなど内海良太[万象]

「万象」2020年5月号
 蕪村の若い時のことを調べたことがある。27歳から37歳の10年間常総の商家に居候したが、主人が江戸に行って留守が幾度となくあっても、蕪村に浮名が流れなかった。それだけ身持ちが固かったのだと私は信じている。その後京都に戻って家庭を持った。蕪村の書簡には娘のことや芸妓小糸のことが出てくるが、根がまじめな蕪村にとって本気の遊びはなかったと私は思っているので作者がどんな蕪村の恋の話をしたか興味がある。蕪村、春炬燵、恋と舞台は揃っているのだ、芭蕉ではこんな句は出来ないのは、蕪村は純粋の町人、芭蕉は武士上がりというところにある。

豆打つてペテルギウスを探しをり小林愛子[万象]

「万象」2020年5月号
 前書きに「ペテルギウス異変・オリオン座崩れるか?」とあるので、ペテルギウスが超新星爆発の直前に暗くなっていることに興味を惹かれて一句が成った。「乾坤の変は風雅の種なり」(芭蕉)を持ち出すまでも無く俳人は何にでも興味を持ちたい。

逗留のクルーズ船に黄砂降る水田光雄[田]

「田」2020年4月号
 クルーズ船と聞いて令和の時代の日本人は新型コロナウイルスと関連づけるのではないか。ダイヤモンドプリンセス号の入港から始まった新型コロナウイルス感染症への具体的脅威に日本人の多くが気付いたのだが、それ以前にも中国人による北海道観光や、海外で感染して帰国した人たちによってあっという間に国内に広がった。黄砂降るはその前兆に思える。

国難の世なり絵踏のこと思ふ堀切克洋[銀漢]

「俳句界」2020年4月号
 微妙なことをうまく言い当てていると感心した。コロナ騒ぎの国難に際して、「三密を避けろ」「不要不急の外出を自粛しろ」「マスクをしろ」「手洗いを行え」と世の中は謂わば監視社会化しているとき、嘗ての絵踏のように、禁を破っている人を炙り出そうとする世の中の気分を言い表したのではないか。コロナ騒ぎではない他の場合にもこんなことが繰り返されるのだと作者は心配している。

病食はあの手この手のはうれん草能村研三[沖]

「沖」2020年5月号
 患者によかれと菠薐草を食べさせたい管理栄養士が菠薐草の献立をあの手この手で考え出してくる智慧に感心したのだと思う。

薔薇の芽のくれなゐ明日を疑はず加藤耕子[耕]

「耕」2020年5月号
 薔薇の芽がくれないであることは元気な芽である証拠、きっとよい薔薇の花を咲かせるよというのが一義的な解釈。薔薇の芽のくれない色に勇気を貰って明日へ進むぞというのが本意だと思う。

初諸子表六句を巻くことに鈴木しげを[鶴]

「鶴」2020年5月号
 初諸子をどこで食べてもいいがこの場合は近江にしたい。琵琶湖の見える座敷で諸子を七輪で炙りながら一杯やる。せっかくの顔触れだから連句を巻きましょうと表六句を巻くことになったと、近江ならではの自然の成り行きを楽しんでいる。

山裾は山につながり木の根開く岩淵喜代子[ににん]

「俳句」2020年5月号
 木の根開くは、一面雪で覆われていた立木の根の周りが立木の春の活動の勢いで雪が溶けだして丸く見え出すこと。雪深い地方の光景。山裾が山に繋がっているのは当たり前であるが、山裾の平らな部分が山の傾斜に繋がっている様子をはっきり写生していると思う。
雛市のことに明るき井戸の底

 今どき雛市は立つのだろうかと思案していたが、雛市は雛祭の前に行われるのでまだ2月の季節。きさらぎの季節感が井戸の底の明るさに反映していると思う。

吹き晴れて富士あらはるる彼岸かな 藤本美和子[泉]
「泉」2020年5月号
 彼岸になればそれぞれお墓参りなどの準備に忙しい。しかし田舎にお墓がある場合はお盆には必ず行くからと何もしないことが多いのではないだろうか。それでも何となく気にかかるときに西の方角に富士山が雲を脱いではっきりと現れると、西方浄土への確かな道筋が見つかったものと安堵するのではないだろうか。

(順不同・筆者住所 〒112-0001 東京都文京区白山2-1-13)