鑑賞「現代の俳句」 (150)                     蟇目良雨

平塚はまだ降つてゐる虎が雨柏原眠雨[きたごち]

「きたごち」2020年9月号
 こういう句に出会うと楽しくなる。虎が雨は曾我十郎祐成に愛された大磯の遊女虎御前が十郎の死を悲しんで降らせた雨であるが、大磯に降った虎が雨が、隣町の平塚にはまだ降り続いていますよという内容。平塚には怪談「番町皿屋敷」の主人公の菊女の墓があり虎御前の悲しみと同様に菊女の悲しみの雨にもなっていると作者は見ている。平塚宿の宿役人であった真壁源右衛門の娘菊が家宝の皿を一枚紛失したという理由で番町の旗本青山主膳に手討ちにされてしまい骸は長櫃に入れられて平塚に戻り父の手で埋葬されたというのが地元に伝わる「番町皿屋敷」のお菊の顛末。作者の好奇心がもたらした新鮮な一句だと思った。固有名詞の平塚と虎が雨の間に生じたずれから新たな物語が生まれた。土地の固有名詞と言えば〈栃木にいろいろ雨のたましいもいたり 阿部完一〉の句を思い出すが、凡人にはなかなか理解しにくいが、掲句はすっきりと胸に落ちた。

若竹や流るるごとく僧過ぎし柴田佐知子[空]

「空」2020年9月号
 竹林を透かして僧が流れるように歩き去る光景を一句にしたもの。若竹のさみどり色に彩られた画面を右から左へ若き僧が足取りも軽く流れるように歩いて消え去ってゆく。「流るるごとく」が若き修行僧をイメージさせてくれる。初夏の静謐な空気を写生している。

鉄橋のリベット五万小鳥来る中尾公彦[くぢら]

「くぢら」2020年10月号
 この句は東京都内の光景であるが、普遍性を持っていると思った。鉄橋をつぶさに見ているとリベット(鉄鋲)で部品が繋がっているところが多数ある。一、二、三と数え始め百、二百、三百とどんどん数え続けるがあとは想像で千、二千と数を増やし、橋を渡ってゆくにつれ一万、二万に膨れ上がり、橋を渡り切るころになっておよそ五万ものリベットが撃ち込まれた巨大な橋であると納得したのである。数え疲れた作者を小鳥が可愛らしい声で慰めたことだろう。この橋は勝鬨橋、作者は建築家と分かれば句に現実味が帯びて来る。

門火焚きけふ一日を独り言(ご)つ和田順子[繪硝子]

「繪硝子」2020年10月号
 門火には迎え火と送り火がある。盆の初めに死者を迎え入れる迎え火は菩提寺からいただいた火を種にして夕方家の前で先祖の霊を迎え入れる目印に焚く。送り火も盆の行事が終わる夕方に御霊のお帰りを見送るために夕方から焚く。京五山の送り火がこれだ。
 掲句はどちらとも言っていないが、門火を焚いたあとの時間をずっと独りごちていたというのだからよほど親しい人を思いやってのことだろう。それも遠い昔でないころ失った最愛の伴侶や子どもなどが考えられる。

青蔦や薄目あけたる格子窓星野恒彦[貂]

「貂」2020年10月号
 写生的な句である。青蔦の絡んだ格子窓の一部が薄目を開けているように見えたという。格子窓とは格子状のものを取り付けた窓の総称であるからどんな窓なのか推理してゆかなければならない。金沢の花街にある木虫籠(きむすこ)のような格子窓とするとその窓を青蔦で覆い尽くすのは無理かも知れぬ。古い大学の図書館の鉄枠で仕切られた硝子窓が案外似合っているかも知れぬ。しかしこれも全面に蔦を這わせるのは無理だ。最後に面格子をはめた窓ならどうだろうか。外壁を覆い尽くした青蔦が面格子にも絡みつき覆い尽くして一部だけ開いているとすればその開いた部分は薄目を開けたように見える。さりげない素材で一句がなったと思った。

苺摘み鶏いそいそと籠のあと和田進[貂]

「貂」2020年10月号
 苺摘みの田園風景を明るく楽しそうに描いた句と思った。苺摘みを済ませて帰ってきた人のあとを追いかけて鶏が蹤いてくるのであるが、いそいそと追うのは籠であると省略しているところが面白味を増している。鶏は苺や苺の葉を食べるのであろうか。軽快なリズムの句は読んでいて気持ちがいい。

陸は海へ帰りつつあり夏氷原紀[対岸]

[対岸]2020年秋号
 ガラス器に山盛りになったかき氷を食べているところ。山の部分を崩しては食べ進むが次第に食べるペースが落ちてくると溶けてくる氷が水になり器の中に見え出す。作者はこれを陸が海になってゆくようだと見えたのだろう。これが一つの鑑賞。もう一つはもっとスケールの大きな話。氷が溶けてゆくのを見て作者の頭の中に地球の温暖化のことがよぎった。温暖化のために陸地は海水面が上昇して海へ帰ってゆくのではないかと案じているのである。ベニスの街の水没や、太平洋の環礁の陸地面積の減少など現在は正に海進時代に入っているのである。
 トランプ時代が続くと東京や大阪も水没する危険があることを知っておきたい。

(順不同・筆者住所 〒112-0001 東京都文京区白山2-1-13)