鑑賞「現代の俳句」 (20)                  沖山志朴

鸛遊ばせてゐる田草取小河洋二〔ひこばえ〕

[俳句四季 2022年 9月号より]
 かつて日本の各地に数多く生息していた鸛(こうのとり)も、数十年ほど前から農薬や自然環境の破壊などにより、朱鷺と同じように生息数が激減してしまった。そのため各地で保護活動が展開されるようになった。兵庫県などのように保護センターを造り、積極的に個体数を増やすことに特に力を入れてきたところもある。今ではその成果が上がり、個体数がかなり増えてきている地域もみられる。
 掲句は、田草取りをしている傍らで、鸛が自由に餌を捕っている光景である。時季によっては、稲の苗を踏みつけたりする害もあるのであろうが、地域の人々の理解や温かい協力のもとに、手厚く保護されていることが納得できる。「遊ばせてゐる」の中七が実に的確。

虫時雨ひときは仮の宿めきて佐藤明彦〔童子〕

[俳句界 2022年 9月号より]
 夜の暗闇に、虫たちが一斉に鳴きだすと、益々この仮の世の儚さが肌身に感じられて、寂しさが募ってくるよ、という。
 仮の宿に対応するのは、「常世」である。常世は永久に変わることのない死後の世界。黄泉もこの常世にあるとされる。日本神話などにおける二律する世界観を暗に対比させながら、移ろいゆく秋の季節の中での寂寥感をふと心内語としてつぶやいている。 

夕桜廃家にのこる人のこゑ山咲一星〔星嶺〕

[俳壇 2022年 9月号より]
 二幕の場面を想像する。第一場はかつての春の日の光景。庭に縁者が集まり、桜の花の下で賑やかに花見の宴を催している。そして第二場。住む人もなく荒れた庭。夕日の中に絢爛と咲き誇る桜。幻聴であろうか、人々の花見の賑やかな声までもが聞こえてくるような錯覚すら覚えるという。
 何やら古典的な和歌の世界にどっぷりとつかった懐旧の句のようであるが、作者が突きつけているのは、今日の日本が抱える深刻な社会問題。人口の減少、空き家問題、社会の衰退。人ごとではないぞと思いつつ読んだ。

草の香のいづれともなき村芝居亀田虎童子〔あを〕

[あを 2022年 8月号より]
 周りのいずこからであろうか、特定はできないが、見物客によって踏みしだかれた草の香りがほのかに漂ってくるという。芝居の会場となっている広場の状況がそれとなく想像される。
 嗅覚との取り合わせにより、ユニークな村芝居の句になった。繊細な感覚を生かした句で、言葉の選択に豊かな詩情が感じられる。肩の力を抜いて、さりげなく詠んだところもまた素晴らしい。

蛇の衣枝から枝へ移らんと南うみを〔風土〕

[風土 2022年 8月号より]
 昆虫類、甲殻類、蛇などの爬虫類等は、成長時や、変態する時に脱皮をする。青大将の脱皮を動画で観たことがあるが、なかなか離れない皮を枝や幹などにこすりつけては、時間をかけながら少しずつゆっくりと脱皮してゆく。
 どの生き物にとっても、脱皮は命がけの行動。掲句の蛇も、容易に離れない皮を、枝にこすりつけ、幹にあてがいながら、苦しみつつ脱皮したものであろう。「枝から枝へ」は、まさにそのような蛇の苦しむ姿の形容そのものである。さりげない措辞が生態をよく捉えている。

子にこんな友だちのゐる夜店かな津川絵理子〔南風〕

[俳句 2022年  9月号より]
 眼目は「こんな友だち」にある。夜祭の人混みの中に、わが子の意外な人間関係を垣間見て驚く。年齢差?異性?それとも風貌?「こんな」は親の知らない子供の世界の象徴。親としての戸惑いが隠せない。
 子供は親の知らないところで活動の場を増やし人間関係を広げてゆく。知っているつもりでも案外把握しきれていない子供の世界がある。成長の楽しみとともに、親としての寂しさをも同時に味わうことになる。

立ち眠る馬の睫や風涼し 酒井多加子〔雲の峰〕

[雲の峰 2022年 9月号より]
 「風涼し」は秋ではなく、夏の終わりのいくらか涼気が感じられるようになった頃の季語である。馬もやはり暑さには弱い動物である。とりわけ暑さの厳しかった今年の夏は、人間と同じようにかなり疲れもたまっている。
 涼しい風に、瞼を閉じて、しばし立ち眠る。その馬の安らぎが、「睫」に象徴されている。焦点化が見事であり、リズムも心地よい。

(順不同)