鑑賞「現代の俳句」 (8)                    沖山志朴

夕暮れは人待つ時間合歓の花田中博子

[なると 令和3年9月号より]
 六月から七月頃、見上げる高さに、淡い紅色の夢見るような花を咲かせる合歓の木。夕暮れには葉が閉じ始める。樹木の花の少ない時期だけに、うっとりと花を眺めた経験のある人も少なくないであろう。
 合歓の花が咲くのは夕暮れだという。その夕暮れは、人が人を待つ時間である、というのが眼目である。朝が、人を送り出したり、人と人が別れたりする時間なのに対して、夕暮れは子供の帰りや、夫、妻など家族の帰りを待つ時間。また、恋人同士が待ち合わせる時間でもある。朝の慌ただしさに対して夕暮れは、ゆったりした精神的にくつろげる時間であり、人が睦み合う時間でもある。そのことが美しく咲き盛る合歓の花に象徴されている。

日おもてに零余子ほろほろぶらさがるしなだしん

[青山 2021年9月号より]
 日当たりがよい場所ほど数多くの零余子が付く。艶やかな零余子が並んでいると、思わず手を伸ばしたくなってしまう。煎って酒のつまみにしても、また、零余子飯にしても秋の味覚が十分楽しめる自然の恵み。
 ほろほろの措辞が見事である。よく熟れた零余子は、ちょっと手を触れただけでも、幽かな音を立てて藪陰に落ちてしまう。そして、それがまた新しい命となって次の年に地上へ芽を出してくる。ほろほろは、そのような植物の巧みな仕掛けまでを暗示的に表現している。

ぎいと鳴る油注したき兜虫水田光雄

[田 2021年9月号より]
 兜虫の視覚的な印象からの発想が見事である。まるで金属でできているかのような兜虫の形や色合い。いかにも動けば軋む音が出そうである。そんな兜虫が気の毒で、潤滑油でも注してやりたいという俳味溢れる句である。
 一句の、「ぎいと鳴る」と「油注したき」は並立の関係にあり、ともに「兜虫」にかかってゆく。重層的な構成になっていること、体言で止めてあることなども、句の印象を鮮明にするための工夫なのであろう。 

川またぐホームに夏の潮匂ふ岩田由美

[秀 2021年秋月号より]
 京急本線の新馬場駅など、川をまたぐ駅は全国に複数あるとのこと。それぞれ地形上や、やむを得ぬ事情があって、最終的にリスクを負いながら造った駅舎なのであろう。
 掲句は、満ち潮に移った時に詠まれた句。河口から海水が遡って川面が膨れてくる。それと同時に夏の潮の香りが、川の真上のプラットホームにも漂ってくる。嗅覚の句であるが、時には行き交う船の音や、海鳥の鳴き声も聞こえてくる駅であろうことも想像できる。

更衣してどこへ行くあてもなし白濱一羊

[角川 俳句 2021年9月号より]
 更衣の時季を迎えた。夏衣をさっぱりと着こなして、気持ちも爽やかになった。さあどこかへ出かけようと思うものの、行く場所とてない。その虚しい気持ちを見事に詠った。
 幾つもある句会のほとんどが通信での句会に代わり、予定されていた吟行や定期的な大会等も全て中止。外出も人混みを避けて行動しなくてはならない異常な状況。これがいつまで続くのか先行きも見えない。そのような状況下での空虚な心理をさりげなく表現した。

のうぜんのどつさり散つて花盛り山田真砂年

[俳壇 令和3年10号より]
 凌霄は夏の終わりに橙色の花を沢山咲かせる。蔓性の植物で、放っておくと塀や家の壁に張り付いてかなり高くまで伸びる。花期も長い。
 掲句、落花しながらも、群れて次々と咲き続ける凌霄の逞しさに驚いている。「散つて」と「花盛り」が対句的に用いられているのが特徴。同時並行的にこの二つが行われているだけに作者にとっても驚きである。花は、落ちた後もしばらくは色変わりすることもなく、鮮やかな色彩を保っているのでなおさら。

山霊の食みあとまざと紅茸三田きえ子

[萌 2021年9月号より]
 紅茸は、薄紅色の見た目はいかにもおいしそうな茸である。その傘の端を虫が少し齧ったのであろう。「まざと」は「まざまざと」を省略した作者なりの造語なのであろう。
 「山霊」を仮に「虫」と置き換えるとすると、この句は報告の句に終わってしまう。「山霊の食みあと」とすることにより、メルヘンの世界が展開され、一句に詩情が生まれてくる。

(順不同)