衣の歳時記(73)   ─ 東をどり

我部敬子

  春の真只中ともいうべき四月。空は明るく麗かな空気に包まれる。山は眠りから覚め、地上の生物たちが活発に活動を始める。鳥は囀り、春の花の間を虫が飛び交う。街には人々が何かを求めて集まってくる。

濃き紅の東踊りの小提灯下田実花
春は花街が一段と華やぐ季節である。東京の新橋の芸者が演舞場に出揃い、華麗な舞を披露する「東をどり」。多くの歳時記が四月の行事としているが、現在は五月の下旬に行われている。「東踊り」と表記しているものもあるが、公式には仮名を使う。

東をどりをどりと仮名で書きにけり久保田万太郎
東をどりは京都の「都をどり」に対抗して大正十四年の四月、新橋演舞場の杮落しとして始まり、毎年の吉例行事となった。大戦中に一時中断したが、戦後は春秋の二回公演となって新作を次々と上演。昭和五十三年からは四月一日からの十日間となり、今では五月末の四日間が充てられる。
四月も半ばを過ぎる頃、銀座界隈の裏通りのあちこちにポスターが貼り出される。歩いていると、白化粧の芸者さんから見つめられているような気がする。最盛期には期間中、築地から銀座にかけて提灯が吊るされていたという。

俥夫溜東踊りのビラ貼りて浜井武之助
新橋花柳界は、明治の新政府の待合政治と共に発展し、政財界人の社交場の役割を果たしてきた。それだけに芸者衆の意気込みと技芸は一流である。当時の勢いは消えてしまったが、今でも東をどりを目標に芸を磨いているという。
筆者はかなり前だが、着付けの仕事仲間と見に行ったことがある。踊りも然ることながら、江戸の粋を感じさせる衣裳や、次々と現れる芸者の帯結びに見とれて、興奮気味のまま帰路についたことを覚えている。

帯ゆれて東踊の総をどり篠原美加英
芸者の正装は着物の女性的な要素をすべて引き出した装いだが、縮緬の黒紋付に緋縮緬の長襦袢、半襟は白で織の帯、帯揚げは緋縮緬と、白塗りの化粧に映えるように計算されている。髪は島田に結い、白足袋を履く。
座敷に呼ばれ、置屋から出かける時の衣裳は「出の衣裳」といい色を選ばない。普段の外出には小紋などの普通の着物を着ている。
座敷では裾を引き、戸外に出た時は左手で褄を取り、長襦袢の裾を見せたまま歩く。いわゆる「左褄」で芸者の異称ともなっている。
因みに一般の花嫁衣裳などの裾引きの場合は、右手で褄を取る決まりである。
なでつける東踊のよべの髪 野村くに女 最後に「都をどり」にも触れておこう。
都をどりは明治五年の京都博覧会の時に始まる。京都の祇園新地甲部の歌舞練場で四月の一ヵ月間行われる。創始以来井上流の舞を貫いている。舞妓、芸妓が出揃う舞台は桜の時期と重なり、さぞかし華やかな光景であろう。一度は見て、京都の衣裳や着付けの風雅の片鱗を味わいたいと思っている。

都をどりをみなの翳を重ねけり中島月笠