衣の歳時記(77)     ー簡単服・アッパッパー

                          我部敬子                                  

 

陽暦八月に相当する陰暦七月は、文月だけでなく七夕月、文披月、女郎花月、涼月などの風情ある異称を持ち、それとなく秋の気配を感じさせる。が、残暑は厳しく、夏バテの身には微かな風も心地よく感じる日々となる。

アッパッパ我に馴染みの風入れて齋藤律子
 冷房が今ほど普及してなかった時代の夏の家庭着「簡単服」。体を締め付けず、風通しのよいワンピース型で涼しい。「アッパッパ」は大阪で生まれた簡単服で、その語感どおり開放的で親しみやすい。歳時記によって「サマードレス」の副季語に組み込まれているものもある。

ひぐらしや簡単服に紐一本 高橋公子
 簡単服が誕生したのは大正時代。当時の世相や社会情勢が色濃く反映されている。明治から大正にかけて、制服としての洋装は定着しつつあったが、多くの女性たちはまだ着物で過ごしていた。若い進取の気風を持った女性達は「モガ」と呼ばれ、欧米の流行を取り入れた洋装を誇示していた。そのうちに洋服を真似た簡単な仕立てのものが作られる兆しはあったが、決定的な契機になったのは関東大震災である。平凡社の『世界大百科事典』のアッパッパの項にその辺の経緯が記されている。震災後、服飾改善を唱える婦人之友社が、一枚一円の簡単服を製造販売し売り出したところ、大層売れて既製服業者も乗り出した。大阪では一枚七〇~八〇銭のアッパッパを販売。浴衣地一反の値段で二枚買えるとあって、庶民が飛びついた。しかも浴衣より涼しい。それまでの洋服に対する抵抗感や戸惑いが一挙に払拭されたのである。アッパッパというのは、裾がぱっと広がるという大阪言葉に由来するという。その頃雑誌で、和裁感覚で気楽に縫う方法が紹介されて更に人気を博した。当時の写真を見ると、下駄履きで多少ちぐはぐな所はあるが、着物から解放されて伸びやかに闊歩している様子が伺える。

アッパッパ著て女房の日本髪須藤諾人
 しかし、急速な洋装化ということで下着を整える術もなく、裾から腰巻がのぞいていたり、以前は慎ましく隠されていた臑が露わになったなどと顰蹙を買っていた時期が続いたが、昭和の十年頃になると、下町では夏場に簡単服を着ている人が大幅に増えた。

女老いこはいものなしアッパッパ 菖蒲あや
 このように見てくると、簡単服やアッパッパは、一部の限られた女性のものであった洋服を、一般女性にまで広めるという大きな役割を果たしていたのである。異国の衣服に慣れ親しむには時間がかかるということであろう。戦後は改良が加えられ、ホームドレス、ハウスドレスなどと名前を変えながら、冷房が完備する昭和五十年頃まで愛用された。
以来高度成長期は実を結び、我が国はファッション大国となった。多様な繊維、デザインが花開き洗練化する中で、再び簡単服のようなシンプルさが求められているような気がする。今大流行のチュニックを見ているとそんな気がしてならない。

簡単な体・簡単服の中櫂未知子